安史の乱とその後の混乱
節度使の反抗
安史の乱に際して、唐朝は藩鎮(はんちん)をくまなく配置して、各地域の防衛の任に就かせた。長安陥落により門閥貴族は没落。門閥貴族は官人営業田という名目で広大な私有地を持っていたが、武官の節度使は計算が苦手だった。そこで、事務員として雇われたのが新興地主層の形勢戸である。形勢戸は官僚として藩鎮に雇われ、藩鎮もまた強大な地方権力に成長した。藩鎮はしばしば中央に反発して唐を苦しめた。中でも河朔(かさく)三鎮と呼ばれる河北の3節度使は世襲するなど、半独立状態にあった。
宦官の皇帝超え
「門生天子、定策国老」と称された。
(唐の科挙は合格者が試験官に特別な礼をするのが一般的だったために、天子=皇帝=受験生、国老=宦官=試験官に例えたもの)
牛李の闘争
民衆の困窮化
経済においても、経済の発展に伴い貧富の格差が拡大し、
土地を捨てて、佃戸と呼ばれる小作になる農家が続出。
→均田制・租庸調制は完全に崩壊
両税制
両税制内容
これは明代半ばまで続けられた。
塩の専売制
限度を知らない宦官の発案により、原価の十倍以上もする塩の専売が安史の乱のころより始められ、国家の重要な財源となったが、民衆の困窮は増大した。
価格
塩1,000円につき税金30,000円。肉の保存に塩が必要だった。そのため、塩の密売人が登場する。
唐の滅亡
黄巣の乱
唐の滅亡
黄巣の乱の平定
鎮圧の見返り
反乱を鎮圧した見返りに開封の節度使の地位が与えられた。開封は大運河と黄河を連結した地点にできた大商業都市であった。
唐の滅亡
ここの徴税権を握った朱全忠は907年、唐の皇帝を呼び出して殺害。長安に居た門閥貴族、宦官を虐殺し、唐を滅ぼした。開封で即位して後梁(こうりょう)をたてた。
中国は五代十国時代の混乱時代へ突入する
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