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大正時代

原敬内閣(1918年-1921年)

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寺内正毅内閣の退陣後、
立憲政友会(右翼)の原敬内閣が登場します。

原敬は何の爵位も官位もなかったことから、
初の「平民宰相」と呼ばれた人です。

ちなみに福島県出身で、
薩長と敵陣営から総理になったのも珍しかったです。

原敬は、
軍閥政治の陸軍大臣・海軍大臣と、
外務大臣以外は、
全員が政友会出身で組織されました。

典型的な政党内閣でした。

元老が政党内閣の必要性を感じたきっかけが、
北陸・富山の米騒動だったという訳です。

原内閣は四大政綱を掲げて、
積極政策に取り組んでいきます。

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四大政綱

①教育改善

原敬は教育改善に取り組みました。

1918年には、
大学令と高等学校令が出されました。

これによって、
日本各地に、

  • 立高校・公立大学
  • 私立高校・私立大学
  • 単科大学

などが設置ブームになりました。

②交通・通信の整備

③産業・貿易の振興

④国防の充実

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パリ講和会議・ヴェルサイユ条約(1919年)

1919年、第一次世界大戦の講和会議がパリで開催され、
ヴェルサイユ宮殿で行われました。

第一次世界大戦の日本の全権として派遣されたのは、
西園寺公望牧野伸顕です。

パリ講和会議に参加した国は全部で27国です。

パリ講和会議で結ばれた条約がヴェルサイユ条約です。
開かれた会議と条約は別々にセットで覚えます。

1919年はパリにいくいくヴェルサイユ
ドイツはイクらイクらの賠償金とおぼえましょう。

日本に関する部分

パリ講和会議では、

  • 山東省のドイツ権益を日本が継承すること
  • 赤道以北のドイツ領南洋群島(パラオ・グアムを除くミクロネシア(マリアナ島・マーシャル諸島)・ニューギニア島北東部)の委任統治権の承認

また、

日本はパリ講和会議で人差別廃止案を提案しましたが、
リカによって人種差別廃止案は拒否されました。

アメリカでは排日運動が起こり、
人種差別撤廃をしろと日本が言っても、
安く真面目に働く日本人は邪魔でした。

これ以後の体制をヴェルサイユ体制といいます。

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国際連盟の設立(1920年)

第一次世界大戦の後の国際協調外交路線を推進した、
グローバルな仲裁機関、これを国際連盟といいます。

国際連盟の本部はスイスのジュネーブに置かれ、
国際連盟の設立を提唱したのはアメリカのウィルソン大統領です。

常任理事国に選任されたのは、

  • イギリス
  • イタリア
  • フランス
  • 日本

の4か国です。

提唱者のアメリカは共和党上院の反対があったので、
常任理事国だけではなく、
国際連盟に参加すらしていませんでした。

また、敗戦国のドイツや社会主義革命が起こったソ連も参加していませんでした。

ウィルソンは、
「国際平和」「民族自決」を主張しました。

「平和14条の原則」も提案しています。

ヨーロッパ、
とりわけ
旧オーストリア・ロシア・オスマン帝国の支配地域の民族の独立を促しました。

アジアやアフリカでは、
独立は認めない、
極めて白人主義的な発想でした。

ここで、
第一次世界大戦で、ヨーロッパ側で参戦した、
アジア・アフリカの国々からは
大きく失望をさせ、
後々に根になりました。

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五四運動・独立運動

1919年、朝鮮と中国で大規模な反大日本帝国な運動が起こりました。

三・一独立運動

当時の朝鮮は、大日本帝国領でしたので、
植民地政策からの解放独立を求めて、
1919年3月1日、
三・一運動が起こりました。

三・一運動は、
三・一独立運動とも万歳事件とも呼ばれます。

朝鮮支配の武断政治から文化政治へ

三・一運動を受けて、
朝鮮半島では斎藤実朝鮮総督によって、
武断政治から文治政治に転換しました。

軍隊の指揮権が朝鮮半島からなくなったほかは、
名前が変わっただけで、本質的支配にはほぼ変化がなくなった。

朝鮮総督になれる人も文官でも可能になったが、
最後まで朝鮮総督は軍官が担当した。

産米増殖政策

朝鮮半島は南部は平地も広く、比較的まだ暖かいため、
米騒動後の食糧危機対策も兼ねて、
米作りが計画されました。

大日本帝国は一度も、自給率100%を達成したことがありませんでした、
特に米自給率100%は悲願でした。

そこで、内地に米を送る必要があったのです。

この政策は満州開拓にバトンタッチする、
1934年頃まで行われました。

これを産米増殖計画といいます。

五・四運動

中国では、
1919年に五・四運動が開催されました。

これはヴェルサイユ条約調印反対を叫んだ、
中国の社会主義者たちが中心に行われました。

結果的に日貨排斥運動に繋がっていき、
三一運動とは違ってこちらは大規模な動きになりました。

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衆議院議員選挙法改正(1919年)小選挙区制の導入

原敬は衆議院議員選挙選挙法を改正し、
直接国税を10円から7円を引き下げて、
3円に引き下げました。

その結果、日本では、
有権者の数が306万人に増加しました。

全人の5.5%です。

それから、
小選挙区制を日本にはじめて導入しました。

小選挙区制は安定政権が作れる、
選挙区が小さくて済むなどのメリットの反面、
選挙で無駄になる票である死票が多く出るという欠点もあります。

原敬自身は、
普通選挙には否定的でした。
金持ちも貧乏人も
男も女も選挙できる制度では、
社会に混乱が起こると想定したからでした。

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原敬時代と軍靴の足音

北一輝と「猶存社」

右翼団体として、
1919年に猶存社という組織が生まれました。
極右指導者の北一輝と大川明らによって組織されました。

のちに軍部や民間右翼から視される最高傑作
北一輝の「日本改造法案大綱」も執筆されます。

森戸事件

1920年、森戸事件が起こります。

学者の森戸辰男は、
「経済学研究」という経済学のサークル冊子に
「クロポトキンの社会思想の研究」という論文を出しました。

そうしたら、
危険思想とみなされて、
弾圧されました。

クロポトキンというのは、
ロシアのアナーキスト(無政府主義者)です。

原敬の暗殺

原敬は1921年、
東京駅駅頭で大塚駅員の中岡艮一によって刺殺されました。

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