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ビザンツ帝国興亡史

ユスティニアヌス帝死後の危機|財政破綻と領土縮小に苦しむビザンツ帝国

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ビザンツ帝国興亡史
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前回の記事では、皇帝ユスティニアヌス1世の治世下で、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)がかつてのローマ帝国領の再征服に乗り出し、地中海世界に再び覇を唱えた「黄金時代」について解説しました。

しかし、栄光の裏側ではすでに帝国の未来に暗雲が垂れ込めていたとみられます。その根本的な原因が、財政赤字の深刻化でした。

栄光の頂点から一転、ユスティニアヌス帝の死後、ビザンツ帝国は財政危機・領土縮小という重大な課題に直面していきます。

この記事では、ユスティニアヌス帝の没後に始まった帝国の苦難の時代、「弱体化」の実態とその背景をわかりやすくたどります。

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栄光が残した負の遺産:財政破綻と帝国の弱体化

ユスティニアヌス帝による西方大遠征は、ヴァンダル王国や東ゴート王国を滅ぼし、北アフリカからイタリア、イベリア半島南部に至る広大な領土を一時的に回復するなど、きわめて成果の大きいものでした。
しかしこの偉業のために、帝国財政には甚大な負担がかかったと考えられています。

長期に及ぶ遠征は膨大な戦費や補給費、人員維持費などを招き、帝国の国庫は疲弊したとみなされています。
加えて、広大な新領土の維持、防衛にも多大なコストが必要となりました。東方ではササン朝ペルシアとの国境紛争が相次ぎ、北方でもドナウ川流域の防衛体制整備は続く状態でした。

結果として、ビザンツ政府は課税負担の強化という選択を強いられます。
この重税政策は住民(特に再征服地域の住民)からの反発を招き、支配への反抗心も強まったと推測されます。
さらに宗教的対立もからみ、ビザンツ帝国による支配の「正統性」は必ずしも十分とはいえなかった、との見解も見られます。

こうして、深刻な財政赤字・重税と民衆の不満が帝国を蝕み、帝国の弱体化が進行した——これが現代の主要な通説です。

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西方領土の喪失:ランゴバルド人によるイタリア剥奪

ユスティニアヌス帝が565年に死去すると、帝国はその脆弱さを急速に露呈していきます。

その3年後、568年にはゲルマン系部族のランゴバルド人が王アルボインのもとアルプスを越え、イタリア半島に大挙侵入しました。
長年の戦争で疲弊していたイタリア諸都市は、十分な抵抗を示せないまま各地で占拠されていったといわれます。

こうしてランゴバルド人は北イタリア一帯を征服し、「ランゴバルド王国」を建国します。
その結果、ビザンツ帝国イタリアの大部分を剥奪されてしまいました。

ビザンツの支配は、ラヴェンナやローマ、南イタリア(長靴のつま先・かかと部分)などに限られ、再統一の試みはあえなく失敗に終わります。

ランゴバルド人とは?
ランゴバルド(Lombard)は、「長いあご髭(Long Beards)」を意味するとの説があるゲルマン系民族です。起源はスカンディナヴィアとも言われ、パノニア(現在のハンガリー地方)に定住したのちイタリアへ進出。かつてビザンツの傭兵であった彼らは、帝国の弱体化を見て自立を求め、イタリアに王国を打ち立てました。現在の「ロンバルディア州」の由来となっています。
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バルカン半島への新たな脅威:アヴァール人とスラブ人の南下

西方で領土を失い続けるなか、ビザンツにとってもう一つ大きな難問がバルカン半島情勢でした。

6世紀半ば、中央アジア出自とされる遊牧騎馬民族のアヴァール人がドナウ川中流域に出現し、アヴァール可汗国を形成します。
彼らは周辺のスラブ人諸部族を従え、続々と大軍を編成。「アヴァール人の南下」と称される大規模な侵入・略奪をビザンツ帝国領に対して断続的に行いました。

防衛線はしばしば突破され、ギリシア地域の都市が荒廃し、コンスタンティノープル(首都)までもが包囲されるという最悪の危機にも直面します(史料によっては包囲自体の規模・時期に異論もあります)。

これらの侵攻によってバルカン半島では大量のスラブ人が定住。
伝統的なラテン・ギリシア文化圏だった地域も徐々にスラブ化が進み、以後の東ヨーロッパ世界形成に決定的な影響を与えることになります。

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ブルガリア王国の成立と帝国のさらなる縮小

7世紀後半には、バルカン半島に外来勢力がさらなる変動をもたらします。

アヴァール人の圧迫を逃れてきたトルコ系の遊牧民ブルガール人が、アスパルフ・ハンのもとドナウ川下流域に現れました。
現地のスラブ人と連携してビザンツ領へ侵攻し、681年には帝国軍に勝利。ブルガリア王国(第一次ブルガリア帝国)の成立を宣言します。

ビザンツはこの新興国家を事実上承認、貢納金支払いを約束する条約締結に追い込まれました。
帝国の弱体化とバルカン支配の揺らぎが、ここでも鮮明になったと言えるでしょう。
以後、ブルガリア王国は数世紀にわたりバルカン半島の有力な国家として君臨し、時にはビザンツの最大のライバルとなりました。ただし王国樹立時期・勢力範囲等には史料ごとにさまざまな異説も存在します。

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まとめ:危機の中から生まれる新たな帝国像

ユスティニアヌス帝が追い求めた「ローマ帝国の再興」は、皮肉にもその死後に財政赤字課税負担強化・多方面での領土縮小という形で帝国の運命を揺るがせる結果となりました。

なぜビザンツ帝国は弱体化したのか?——多重の危機が重なったこの時代、帝国は絶えず外敵と内患に悩まされながらも、存続と変革への道を模索していきます。

やがて、帝国は古代ローマの伝統から東方的・ギリシャ的要素を強く持つ「中世ビザンツ帝国」へと姿を変えてゆくことになります。

次回は、生き残りをかけた帝国再建の舵を取った名君ヘラクレイオス帝の改革と、その歴史的意義に注目します。


参考文献
・詳説世界史研究(木下康彦・吉田寅・木村靖二 編、山川出版社)
・ヨーロッパの歴史―欧州共通教科書(木村尚三郎 監訳)
・西アジア史〈1〉アラブ/〈2〉イラン・トルコ(新版 世界各国史、山川出版社)
その他の参考文献はこちらのページにまとめています。

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