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ヨーロッパ世界の形成と発展

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ビザンツ帝国興亡史

なぜビザンツ帝国は滅亡したのか?1453年コンスタンティノープル陥落と最後の皇帝コンスタンティヌス11世の悲劇

古代ローマ帝国の伝統を受け継ぎ、約1000年にわたり東地中海世界に強い影響力をもったビザンツ帝国(東ローマ帝国)。その首都コンスタンティノープルは、難攻不落の城壁ときらびやかなキリスト教文化で、中世ヨーロッパ世界の一大中心地として知られてい...
ビザンツ帝国興亡史

ビザンツ帝国はなぜ復活できた?ニケーア帝国とミカエル8世の再興戦略を解説

1204年、第4回十字軍によるコンスタンティノープル陥落は、キリスト教世界に衝撃を与えました。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の伝統はここで一度断絶……しかし、その炎が完全に消えることはありませんでした。古代ローマ帝国の末裔たるビザンツの皇族・...
ビザンツ帝国興亡史

【1204年の悲劇】第4回十字軍はなぜコンスタンティノープルを占領したのか?ビザンツ帝国の内部崩壊とヴェネツィアの野望

11世紀末、コムネノス朝の登場によって、一時的に復興を果たしたビザンツ帝国。しかし、その再建は決して安定したものではなく、帝国内部の複雑な課題が解決されたわけではありませんでした。そして1204年、運命の分岐点が訪れます。本来は聖地奪還を目...
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ビザンツ帝国興亡史

ビザンツ帝国コムネノス朝の功罪|アレクシオス1世は十字軍とヴェネツィアで帝国を再建できたのか?

11世紀後半、かつて地中海世界に君臨したビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、内紛と外敵の侵攻によって崩壊の瀬戸際に立たされていました。貴族間の権力闘争や軍事力の低下など、その衰退には複数の要因が複雑に絡み合っていたとされています。(参考:ビザン...
ビザンツ帝国興亡史

ビザンツ帝国はなぜ衰退した?11世紀の内紛と混乱を招いた4つの要因

かつて「ブルガリア人殺し」として名高い皇帝バシレイオス2世の治世により、ビザンツ帝国の黄金時代「マケドニア朝」を迎えたビザンツ帝国。しかしその繁栄は長く続かず、11世紀になると深刻な内紛と混乱の時代に突入します。この混乱と衰退の理由は単一で...
ビザンツ帝国興亡史

ビザンツ帝国の黄金時代「マケドニア朝」とは?バシレイオス1世・2世の功績を解説

ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の歴史の中でも、マケドニア朝(867年〜1056年)はしばしば「黄金時代」あるいは「中世ビザンツの最盛期」と呼ばれています。この時代には、軍事・経済・文化のすべての面で帝国が再興し、地中海世界の中心として再び君臨...
ビザンツ帝国興亡史

ビザンツ帝国イサウリア朝とは?イコノクラスム(聖像破壊運動)がローマ教会と世界史に与えた影響を解説

ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の歴史の中でも、8世紀から9世紀初頭にかけて存続したイサウリア朝(717年~802年)は、帝国の命運を大きく左右する宗教対立と激しい社会変動の時代として広く知られています。この時代を象徴するのが、イコノクラスム(...
ビザンツ帝国興亡史

ビザンツ帝国はなぜ「ギリシア化」したのか?コンスタンティノープル攻囲を乗り越えた社会再編と大転換を解説

古代ローマ帝国の東半分を継承したビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、1000年以上にわたって存続した世界史上屈指の大帝国です。しかし、その黄金時代の裏側には、「存亡の危機」と「社会の根本的な再編」を迫られた激動の時代が隠れています。7世紀、帝国...
西ヨーロッパ中世世界の変容

薔薇戦争(1455年~1485年)とテューダー朝の創始とイングランドの統合と団結と絶対王政のはじまり 赤薔薇白薔薇

イギリスでは百年戦争終結後、王位継承を巡って、ランカスター家とヨーク家による、薔薇戦争が起こりました。これは三十年間続きましたが、三十年戦争とは別なので、注意してください。ヨーク朝薔薇戦争は、1455年、エドワード3世の曾孫ヨーク公リチャー...
西ヨーロッパ中世世界の変容

13世紀のイングランド プランタジネット朝とヘンリ2世の直接統治とコモン・ロー

13世紀といえば、日本でも名実ともに武士の時代になった頃、ヨーロッパでもイングランドとフランスでも、御恩と奉公ではなく、騎士団としての忠誠心が試される時代に。中世ヨーロッパの封建社会のはじまり13世紀には、あらゆるヨーロッパは、王権は広い範...
西ヨーロッパ中世世界の変容

コンスタンツ公会議-教会大分裂の行方-

ヨーロッパの政治の分裂は、大シスマ(教会大分裂)を長期化させました。フランス人の教皇クレメンス7世(アヴィニョン教皇庁)は、フランスブルゴーニュスコットランドカスティーリャの各君主から支持を得ました。一方で、ローマ教皇であるウルバヌス6世を...
西ヨーロッパ中世世界の変容

教皇権の衰退-アナーニ事件・アヴィニョン教皇庁と教会大分裂-

11世紀のグレゴリウスの改革以降、聖職者への課税を巡って、フランス王フィリップ4世と対立していたローマ教皇陣営。ローマ教皇ケレスティヌス5世の即位と退位1294年、ローマ教皇として、新教皇ケレスティヌス5世が即位。ケレスティヌス5世は、イタ...
西ヨーロッパ中世世界の変容

封建社会の衰退と黒死病の流行

自然災害の連発と、政治的無能&無策は、1315年~1322年の北ヨーロッパに深刻な飢饉をもたらしました。豪雨は作物を破壊し、家畜は死に絶え、食糧の値段は上昇し、そのすべてが飢餓・病気・死をプレゼントしてくれました。明日はバレンタインですが、...
西ヨーロッパ中世世界の変容

中世の産業ギルドと親方とツンフト闘争

中世の産業はギルド(Guild)を通じて、高度に組織づくりがされていきました。都市のギルドは、もともとは同業の人々による信仰・慈善・ボランティアの団体でしたが、12世紀後半までに、報酬・労働時間・製品の基準などを定めたルールを持つ仕事の団体...
西ヨーロッパ中世世界の変容

両替商から銀行業へ:中世ヨーロッパの金融革命

中世ヨーロッパの貨幣と両替商の役割中世ヨーロッパでは、多くの種類の金貨や銀貨が混在して流通していました。純度の高い硬貨もあれば、混ぜ物が多い硬貨もあり、このような状況で両替商が重要な役割を果たしました。両替商は異なる貨幣を交換し、その価値を...
西ヨーロッパ中世世界の変容

ギルドとハンザ同盟が支えた中世ヨーロッパの自治都市の繁栄

ヨーロッパ都市の自治権の獲得都市と封建領主の対立中世ヨーロッパでは、都市や農村が形成される過程で、近くの封建領主から保護を受けることがありました。しかし、都市が経済的に力を持つようになると、自治を求める動きが強まりました。領主にとって、都市...
西ヨーロッパ中世世界の変容

中世末ヨーロッパの経済の衰退と躍動

西暦1000年以降、ヨーロッパの人口は増え続けました。人口が増え続けたので、商業取引が爆発的発展と新しい都市や農村の建設が盛んになりました。1100年頃、地中海で自由航海が盛んになって、地中海貿易が繁栄しました。時を同じく、陸路でも北ヨーロ...
ビザンツ帝国興亡史

ビザンツ帝国を救った改革「テマ制」とは?ヘラクレイオス帝の治世をわかりやすく解説

帝国の危機に立ち向かったヘラクレイオス1世ユスティニアヌス帝による「黄金時代」が終息した後、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は急激な衰退期に突入します。特に財政の悪化や、周辺異民族の絶え間ない侵入によって、帝国の基盤は大きく揺らぎました。(詳し...
ビザンツ帝国興亡史

ユスティニアヌス帝死後の危機|財政破綻と領土縮小に苦しむビザンツ帝国

前回の記事では、皇帝ユスティニアヌス1世の治世下で、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)がかつてのローマ帝国領の再征服に乗り出し、地中海世界に再び覇を唱えた「黄金時代」について解説しました。しかし、栄光の裏側ではすでに帝国の未来に暗雲が垂れ込めてい...
ビザンツ帝国興亡史

ビザンツ帝国の黄金時代:ユスティニアヌス帝の栄光と影

はじめに:最後のローマ皇帝か、最初のビザンツ皇帝か395年、テオドシウス帝の死によってローマ帝国が東西に分裂した後、西方の西ローマ帝国は早くも476年に滅亡します。しかし東方のビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、首都コンスタンティノープルを拠点...
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