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ヨーロッパ世界の形成と発展

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西ヨーロッパ世界の成立

ノルマン人の大躍進 — 1066年ノルマン・コンクエストと地中海を制したシチリア王国の誕生

ノルマン人のパリ征服サンジェルマン=デ=プレ修道院修道士アボンは885年から886年の侵攻を目撃しました。彼は詩篇に託してそのときの様子を後世に伝えました。赤銅色の空の下、太陽が光を降り注いでいる中で、デーン人は至福の地ドニ(セーヌ川とサン...
西ヨーロッパ世界の成立

カノッサの屈辱と聖職叙任権闘争 — 教皇権と王権が激突した中世最大の転換点

はじめに:教会改革運動とグレゴリウス7世の即位11世紀半ばの西ヨーロッパでは、世俗権力による教会の支配や聖職者の堕落を正そうとする改革派の運動が大きな高まりを見せていました。その改革派の中心人物であった修道士ヒルデブラントは、1073年にロ...
西ヨーロッパ世界の成立

1054年の大分離と東西教会の対立 — ローマ・カトリックと東方正教会を隔てた首位権の深淵

はじめに:深まる東西の亀裂と「1054年の大分離」キリスト教世界では、かつてローマ帝国の東西分裂以降、西のローマを中心とする教会と、東のコンスタンティノープルを中心とする教会のあいだで、言語(ラテン語とギリシア語)、教理の解釈、儀礼の様式な...
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西ヨーロッパ世界の成立

10世紀イベリア半島の光影 — 後ウマイヤ朝の黄金期とキリスト教諸国の相克・交易網の繁栄

はじめに:西ゴート王国の滅亡と残された「亡命者」たち8世紀初頭、イベリア半島を支配していた西ゴート王国がウマイヤ朝の侵攻によって滅亡すると、半島の大部分はイスラーム勢力の支配下(アル=アンダルス)に入りました。しかし、北部の険しい山岳地帯へ...
西ヨーロッパ世界の成立

北海の覇者とデーン朝 — 青歯王からクヌーズ大王の「北海帝国」結実へ(10〜11世紀)

スカンディナヴィアの変容とキリスト教への改宗10世紀から11世紀にかけて、スカンディナヴィア半島およびその周辺地域では大きな歴史的転換が起こりました。それまでこの地域には、独自の多神教(オーディンやトールなどを祀る北欧神話)や地域信仰を信奉...
西ヨーロッパ世界の成立

デーン人の脅威から統一王国へ — アルフレッド大王とエドガー平和王が築いたイングランド王国の成立

はじめに:英仏海峡を越えた侵攻とアングロサクソン人の危機英仏海峡を挟んでヨーロッパ大陸と向き合うブリテン島では、5世紀以降、ゲルマン系の一派であるアングロサクソン人が移住し、いくつかの小王国(七王国/ヘプターキー)を形成していました。しかし...
西ヨーロッパ世界の成立

西フランク王国の変容とカペー朝の誕生 — 弱体化した王権からフランス王国の礎へ(987〜1328年)

はじめに:名ばかりの「強大な王家」と西フランク王国の群雄割拠843年のヴェルダン条約によってフランク王国が分裂し、のちのフランスの原型となった西フランク王国。成立当初、王権を握っていたのはカール大帝の血を引くカロリング家でした。かつては「強...
西ヨーロッパ世界の成立

東フランク王国の危機から帝国誕生へ — オットー1世の偉業と神聖ローマ帝国の礎(962~1806年)

はじめに:カロリング家の断絶と東フランク王国の混迷かつてカール大帝が築いたフランク王国が分裂して生まれた東フランク王国では、911年に大きな転換期を迎えました。支配者であったカロリング家の男系血統が途絶えたのです。中央の強力な王権が失われた...
西ヨーロッパ世界の成立

外敵の侵攻と救済の祈り — 10世紀初め、クリュニー修道院の創設が西ヨーロッパをもたらした再生

はじめに:暗黒の10世紀と試練に立つ西ヨーロッパ9世紀から10世紀初めにかけての西ヨーロッパは、まさに「試練の時代」を迎えていました。かつてフランク王国を統治したカール大帝の没後、息子のルートヴィヒ敬虔帝の時代に王国は分裂に向かい、かつての...
ビザンツ帝国興亡史

なぜビザンツ帝国は滅亡したのか?1453年コンスタンティノープル陥落と最後の皇帝コンスタンティヌス11世の悲劇

古代ローマ帝国の伝統を受け継ぎ、約1000年にわたり東地中海世界に強い影響力をもったビザンツ帝国(東ローマ帝国)。その首都コンスタンティノープルは、難攻不落の城壁ときらびやかなキリスト教文化で、中世ヨーロッパ世界の一大中心地として知られてい...
ビザンツ帝国興亡史

ビザンツ帝国はなぜ復活できた?ニケーア帝国とミカエル8世の再興戦略を解説

1204年、第4回十字軍によるコンスタンティノープル陥落は、キリスト教世界に衝撃を与えました。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の伝統はここで一度断絶……しかし、その炎が完全に消えることはありませんでした。古代ローマ帝国の末裔たるビザンツの皇族・...
ビザンツ帝国興亡史

【1204年の悲劇】第4回十字軍はなぜコンスタンティノープルを占領したのか?ビザンツ帝国の内部崩壊とヴェネツィアの野望

11世紀末、コムネノス朝の登場によって、一時的に復興を果たしたビザンツ帝国。しかし、その再建は決して安定したものではなく、帝国内部の複雑な課題が解決されたわけではありませんでした。そして1204年、運命の分岐点が訪れます。本来は聖地奪還を目...
ビザンツ帝国興亡史

ビザンツ帝国コムネノス朝の功罪|アレクシオス1世は十字軍とヴェネツィアで帝国を再建できたのか?

11世紀後半、かつて地中海世界に君臨したビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、内紛と外敵の侵攻によって崩壊の瀬戸際に立たされていました。貴族間の権力闘争や軍事力の低下など、その衰退には複数の要因が複雑に絡み合っていたとされています。(参考:ビザン...
ビザンツ帝国興亡史

ビザンツ帝国はなぜ衰退した?11世紀の内紛と混乱を招いた4つの要因

かつて「ブルガリア人殺し」として名高い皇帝バシレイオス2世の治世により、ビザンツ帝国の黄金時代「マケドニア朝」を迎えたビザンツ帝国。しかしその繁栄は長く続かず、11世紀になると深刻な内紛と混乱の時代に突入します。この混乱と衰退の理由は単一で...
ビザンツ帝国興亡史

ビザンツ帝国の黄金時代「マケドニア朝」とは?バシレイオス1世・2世の功績を解説

ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の歴史の中でも、マケドニア朝(867年〜1056年)はしばしば「黄金時代」あるいは「中世ビザンツの最盛期」と呼ばれています。この時代には、軍事・経済・文化のすべての面で帝国が再興し、地中海世界の中心として再び君臨...
ビザンツ帝国興亡史

ビザンツ帝国イサウリア朝とは?イコノクラスム(聖像破壊運動)がローマ教会と世界史に与えた影響を解説

ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の歴史の中でも、8世紀から9世紀初頭にかけて存続したイサウリア朝(717年~802年)は、帝国の命運を大きく左右する宗教対立と激しい社会変動の時代として広く知られています。この時代を象徴するのが、イコノクラスム(...
ビザンツ帝国興亡史

ビザンツ帝国はなぜ「ギリシア化」したのか?コンスタンティノープル攻囲を乗り越えた社会再編と大転換を解説

古代ローマ帝国の東半分を継承したビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、1000年以上にわたって存続した世界史上屈指の大帝国です。しかし、その黄金時代の裏側には、「存亡の危機」と「社会の根本的な再編」を迫られた激動の時代が隠れています。7世紀、帝国...
西ヨーロッパ中世世界の変容

薔薇戦争(1455年~1485年)とテューダー朝の創始とイングランドの統合と団結と絶対王政のはじまり 赤薔薇白薔薇

イギリスでは百年戦争終結後、王位継承を巡って、ランカスター家とヨーク家による、薔薇戦争が起こりました。これは三十年間続きましたが、三十年戦争とは別なので、注意してください。ヨーク朝薔薇戦争は、1455年、エドワード3世の曾孫ヨーク公リチャー...
西ヨーロッパ中世世界の変容

13世紀のイングランド プランタジネット朝とヘンリ2世の直接統治とコモン・ロー

13世紀といえば、日本でも名実ともに武士の時代になった頃、ヨーロッパでもイングランドとフランスでも、御恩と奉公ではなく、騎士団としての忠誠心が試される時代に。中世ヨーロッパの封建社会のはじまり13世紀には、あらゆるヨーロッパは、王権は広い範...
西ヨーロッパ中世世界の変容

コンスタンツ公会議-教会大分裂の行方-

ヨーロッパの政治の分裂は、大シスマ(教会大分裂)を長期化させました。フランス人の教皇クレメンス7世(アヴィニョン教皇庁)は、フランスブルゴーニュスコットランドカスティーリャの各君主から支持を得ました。一方で、ローマ教皇であるウルバヌス6世を...
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