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西ヨーロッパ世界の成立

ノルマン人の大躍進 — 1066年ノルマン・コンクエストと地中海を制したシチリア王国の誕生

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西ヨーロッパ世界の成立
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ノルマン人のパリ征服

サンジェルマン=デ=プレ修道院修道士アボンは885年から886年の侵攻を目撃しました。彼は詩篇に託してそのときの様子を後世に伝えました。

赤銅色の空の下、太陽が光を降り注いでいる中で、デーン人は至福の地ドニ(セーヌ川とサンドニの間に位置する平野)に属する地域のセーヌ川岸辺を荒らし回った。彼らはサンジェルマン=ル=ロン(現在のルーヴル美術館前のサンジェルマン=ロクセロワ教会)にほど近いところに、野営地の設営を始めた。その設営現場では、杭や石積みの山、土盛りがごちゃまぜになっていた。それから馬に乗り、あるいは徒歩で、この蛮族たちは丘を、田野を、森を、さえぎるもののない平野を、村を縦横に駆け巡った。いたいけな子供も、若者も、白髪頭の老人も、父も息子も母も、彼らは一人残らず殺戮した。(略)しかし、このような阿鼻叫喚のさなかにあって、周りで繰り広げられる蛮行にも動ぜず、パリは毅然として立っていた。

アポン「ノルマン人のパリ攻略」

地中海と北西欧を駆け抜けたノルマン人

11世紀、フランス北部のノルマンディー公領に定着したノルマン人(北欧系ヴァイキングの後裔)は、卓越した軍事力と機敏な政治外交センスを発揮し、ヨーロッパ各地の歴史を塗り替えていきました。

彼らは卓越した騎兵戦術と要塞建築を武器に、北の英仏海峡から南の地中海に至るまで縦横無尽に進出し、時代の主導権を掌握していったのです。

1. イングランドの征服と「ノルマン朝」の成立(1066年)

イングランドでは1066年、アングロサクソン系のエドワード懺悔王が逝去します。国王には子がおらず、後継者をめぐって決定的な対立が勃発しました。

陣営主張と背景
ウェセックス伯ハロルドイングランド諸侯の支持を受け、即位を宣言(ハロルド2世)。
ノルマンディー公ギョームエドワードからの継承権の約束を主張。教皇から教皇旗の授与を受け、正統性を喧伝。

1066年10月、ギョームは海を渡って海域へ侵攻し、ヘイスティングスの戦いでハロルド2世を敗死させました。勝利を収めたギョームはそのままロンドンに進軍し、同年のクリスマスの日ウェストミンスター寺院においてイングランド王に戴冠を果たします。

©タペストリー美術館 11世紀末頃に製作されたこの作品は、ヨーロッパ最古の劇画といえるかもしれない。長い麻布に刺繍された58の場面からなり、その長さは70cm、横幅は50cmである。それぞれの場面にはラテン語の説明文がつき、ノルマンディー公ギョームによるイングランド征服の模様が描かれている。

彼こそが「征服王(ウィリアム1世)」であり、ここに新たな王朝「ノルマン朝」が誕生しました。

2. イングランド統治の再編と「ノルマン的封建制」

ウィリアム1世は、征服したイングランドの支配を強固にするため、社会と教会の構造を根本からつくり変えました。

  • 集権的な封建制の導入: ヨーロッパ大陸のような権力細分化(領主たちの無秩序な自立)を防ぎ、全領主と自由民に直接国王への忠誠を義務付けました。自らの家臣たちに領地を分散して与えることで、強力な王権のもとでの封建制を確立します。
  • 地方行政の統制(シェリフ): アングロサクソン期からの地方行政区画を引き継ぎ、王の直属の地方長官であるシェリフ(州長官)を各州に配置して税の徴収や治安維持を監視させました。
  • イングランド教会の再編(ランフランクの登用): ウィリアム1世は、イタリア出身の学者ランフランクをカンタベリ大司教に抜擢し、イングランド教会を再編しました。これは改革派教皇グレゴリウス7世の勢力と連携しつつも、国内の司教任命権は国王が握り続けるという巧みな宗教政策でした。

3. 南イタリア進出とオートヴィル家の台頭

時を同じくして、地中海方面でもノルマン人の躍進が進んでいました。ノルマン人傭兵として南イタリアに渡った小貴族貴族オートヴィル家の兄弟たちが、卓越した武功で勢力を拡大します。

中でも首領ロベール=ギスカールは、当時南イタリアで複雑に拮抗していたビザンツ軍イスラーム勢力、さらにザーリア朝ドイツの圧迫に対抗し、この地域の覇権を握っていきました。

1059年、改革を進める教皇座(ニコラウス2世)は、皇帝勢力に対抗するための強力な同盟者としてロベールを認め、彼をカラブリア候(およびプーリア・シチリア公)に封じます。これにより、オートヴィル家は南イタリア支配の正統性を勝ち取りました。

4. シチリア王国の建国と高度な多文化社会

ロベール=ギスカールの弟ルッジェーロ1世によるシチリア島攻略を経て、その息子ルッジェーロ2世の代に南イタリアとシチリアの統一が完成します。

1130年、ルッジェーロ2世は対立教皇アナクレトゥス2世から王冠を授けられ、シチリアナポリ、南イタリア全域を治めるノルマン朝シチリア王国を創始しました。

地中海の学問・文化の交差点

ノルマン朝シチリア王国は、キリスト教(ラテン・ビザンツ)文化とイスラーム文化が高度に融合した多文化国家となりました。首都パレルモの宮廷には諸国の学者が集まり、アラビア語に翻訳されていたギリシア・ラテン文学や自然科学の文献がラテン語へと翻訳・研究され、後の十二世紀ルネサンスの呼び水となりました。

こうして、北のイングランド王国と南のシチリア王国という、中世ヨーロッパの政治・文化・制度を大きく進歩させる二つの強力なノルマン国家が出揃ったのです。

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