帝国の危機に立ち向かったヘラクレイオス1世
ユスティニアヌス帝による「黄金時代」が終息した後、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は急激な衰退期に突入します。
特に財政の悪化や、周辺異民族の絶え間ない侵入によって、帝国の基盤は大きく揺らぎました。
(詳しくは前回の記事「ユスティニアヌス帝死後の危機|財政破綻と領土縮小に苦しむビザンツ帝国」をご覧ください。)
この時期、帝国は東からササン朝ペルシア(イラン高原を本拠とした大国)の圧迫、北側からアヴァール人やスラブ人といった新たな民族勢力の批判的進出を受け、
領土と民心の両面において危機的な状況に立たされます。
こうした状況下で現れたのが、今回の主役であるヘラクレイオス1世(610年~641年の在位)です。
カルタゴ総督の子として生まれたヘラクレイオスは、暴政を強いるフォカス帝に取って代わり610年に皇帝となりました。
彼の治世こそ、後のビザンツ帝国像や社会体制を決定づけた大転換期として評価されています。
社会の再建と国防強化:テマ制と屯田兵制
ヘラクレイオス帝が直面した課題のひとつが、窮迫する国防体制の立て直しでした。
そのため彼が始めた、あるいは発展させたとされるのが、テマ制(軍管区制)と屯田兵制です。
この二つの制度は、後のビザンツ社会の基幹となり、帝国の安定に大きく寄与しました。
テマ制(軍管区制)とは? 司令官ストラテゴスの役割
伝統的に「ヘラクレイオス帝が創設」とされますが、彼の治世で原型が形作られ、
7~8世紀にかけて段階的拡大・整備されたと考える研究も増えています。
テマ制とは、帝国領土を「テマ」と複数の軍管区に区分し、
各テマには軍と行政を兼ねる「ストラテゴス」という司令官が置かれました。
中央からの命令を待たず、局地的な判断で防御・運営できる点に特徴があったとされます。
特に、広範な前線を抱える時期には素早い軍事対応を可能にした点で、当時の帝国防衛には一定の効果があったと指摘されています。
屯田兵制と農村社会
テマ制と並行して重要視されたのが屯田兵制です。
いわゆる屯田兵制とは、兵士に土地を支給し、その開墾や耕作にあたらせる一方で、徴兵時には自ら武装して従軍するという仕組みでした。
ヘラクレイオス帝の時代、従来の傭兵依存体制は財政・軍事両面で限界に達しており、
自作農による兵農一致体制への転換が不可避だったと想定されます。
この制度では、かつて隷属的身分だったコロヌス(ローマ時代の小作人)の中にも土地を得て自立した者が含まれた可能性があります。
一定規模以上の大土地所有の抑制効果も指摘されていますが、その実態については研究者によって諸説があり、
営農権と兵役義務のバランスは地方や時期で異なっていたと考えられています。
ビザンツ帝国の屯田兵制は、日本の鎌倉幕府の「御恩と奉公」的な土台を想起させます。
司令官が兵士に土地の支配権(御恩)を与え、兵士は戦時の従軍(奉公)で応える――土地所有と兵役が密接に連関した点で構造的類似がみられます。
ササン朝ペルシアと最後の大戦:ヤルムークの戦いへ
ヘラクレイオス帝のもう一つの偉業は、ササン朝ペルシアに対抗した長大な戦争でした。
622年、彼は自ら軍を率いて戦地に赴き、小アジアからアルメニア方面への反攻を開始しました。
この間、626年には首都コンスタンティノープルが、西側からアヴァール人、東側からササン朝の協同軍に包囲されるという、帝国史上屈指の危機を迎えます。
しかし、堅固な城壁と海軍の防衛によってこの脅威は退けられました。
627年のニネヴェ近郊での会戦では、ヘラクレイオス軍がササン朝軍に勝利し、
翌年、ササン朝は和約締結を余儀なくされます。
これにより、帝国はシリア、パレスチナ、エジプトなど旧領の回復を手にしたと記録されています。
イスラーム勢力の勃興と「喪失の時代」
ここで帝国の東方国境はふたたび安定したかに見えましたが、
程なく新しい脅威がアラビア半島から現れます。
イスラーム国家の興隆とビザンツ失地
622年、ムハンマドによるメディナ移住(ヒジュラ)を契機にイスラーム共同体(ウンマ)が成立します。
ムハンマド没後、カリフによるジハード(聖戦)が開始され、急速に帝国の国境地帯へと迫りました。
ヘラクレイオス帝とササン朝の戦いは帝国の疲弊を招き、
その隙をつく形で、636年のヤルムークの戦いではビザンツ軍が大敗を喫しました。
この敗戦以降、帝国はシリア・パレスチナから撤退を余儀なくされ、
さらにエジプトもイスラーム勢力の支配下に入ることになります。
ヘラクレイオス帝が戦いの末に奪還した地は、ほどなくしてイスラームに占領され、帝国の中核から去る結果となりました。
このような急激な失地の背景としては、当時のビザンツ中央政権とシリア・エジプトなど地方キリスト教との宗派対立や圧政、
それにともなう現地住民の反発・無関心が一因であったと指摘されています。
また、ササン朝自体もイスラーム勢力の侵攻には抗しきれず、651年には滅亡します。
ヘラクレイオスの遺産―ギリシア語の公用語化と新しいビザンツ世界
軍事的・領土的には痛恨の喪失も経験したヘラクレイオス帝の治世ですが、
彼が導入した制度や政策は、後世の帝国基盤を形作る大きな契機となりました。
特筆すべきは、彼の時代以降、帝国内の公用語がラテン語からギリシア語へと急速にシフトし始めた点です。
これは「新しいビザンツ帝国」の始まり――ローマ帝国の正統後継という自認から、中世ギリシア的正教国家への自意識転換を象徴するとみなされています。
(詳しくは「新しいビザンツ帝国の形成とは?ラテン語からギリシア語へ・コンスタンティノープル攻囲と再編された社会構造を解説」も参考にどうぞ。)
また、テマ制や屯田兵制の整備は、帝国の社会構造を中世的なものへと着実に変えていったとも考えられています。
これらの制度が後の危機にも柔軟に対応し、ビザンツ帝国が長きにわたり存続した一因となったという評価もあります。
ヘラクレイオス帝の時代は、喪失と創造が同時進行する、ビザンツ帝国史の大きな転換点であったと位置づけられるでしょう。
彼が築いた基盤の上に、帝国は新たな時代を切り開いていくこととなります。
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・詳説世界史研究(木下康彦・吉田寅・木村靖二 編、山川出版社)
・ヨーロッパの歴史―欧州共通教科書(木村尚三郎 監訳)
・西アジア史〈1〉アラブ/〈2〉イラン・トルコ(新版 世界各国史、山川出版社)
その他の参考文献はこちらのページにまとめています。






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