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イスラーム世界イスラーム帝国の形成と発展と分裂

テュルク人(トルコ人)の時代~セルジューク朝・カラハン朝・ガズナ朝~

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テュルク人の西方移住

テュルク人(トルコ人)はもともと。モンゴル高原に居たが、テュルク系のウイグルがテュルク系のキルギスに倒され西へと敗走。その後、中央アジアで遊牧生活を送っていたテュルク人は,人口増加のためにまた西方へと移住を開始する。

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テュルク人のイスラーム教への改宗

イスラーム教徒の商人や神秘主義者との接触などによりイスラーム教へ改宗する。

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テュルク系イスラーム

セルジューク

セルジューク朝はテュルク系でスンナ派を国教とするイスラーム国家。

トゥグリル=ベグの時代

バグダード入城

1055年、セルジューク朝のトゥグリル=ベグは、アッバース朝のカリフへブワイフ朝の討伐を命じた。バグダードに入城したトゥグリル=ベグはアッバース朝のカリフからスルタンの称号を得た。スルタンの実態は大アミールと同じである。アッバース朝のカリフは宗教的権威しか残っておらず、イスラーム世界の政治的権限はスルタンが保持した。これ以後、スルタンはスンナ派イスラーム国家の称号として用いられるようになる。

アルプ=アルスラーンの時代

マンジケルトの戦い

1071年、ビザンツ国にマンジケルトの戦いでビザンツ皇帝を捕え、勝利を収めたセルジューク朝はシリアと小アジアを支配することとなる。小アジアのイスラーム化やテゥルク化が進み、今のトルコとなる。縮小していくビザンツ帝国はローマ教皇に援軍派遣を請。教皇はクレルモン公会議で十字軍の派遣を諸国に頼んだ。

マリク=シャーの時代

セルジューク朝の最盛期

宰相・ニザーム・アル・ムルク

イラン系の宰相・ニザーム・アル・ムルクはセルジューク朝の最大勢を実現する立役者となるとともに、イクター制を各地に整備する。また、ファーティマ朝のシーア派伝工作に対抗して、各地にスンナ派の神学の授業を行うニザーミーヤ学院(マドラサとも)を建設。バグダードのニザーミーヤ学院はイスラーム世界の最高学府であった。

文化人・オマル=ハイヤーム(ウマル=ハイヤーム)

『ルバイヤート』(四行詩集)の作者として知られるイラン系のオマル=ハイヤームが活躍。。ルバイヤートの原はタイタニック号とともに大西洋の海底に沈んだことでも知られる。

神学者・ガザーリー

イスラーム史上もっとも有名な思想家として知られるイラン系のガザーリーもこの時代の人。ニザーミーヤ学院で教授を務めた。「宗教諸学のよみがえり」を著した。この本で、今まで批判対象であった神秘主義思想がイスラーム信仰に正しく位置づけられるようになる。

カラ=ハン朝

10世紀にサーマーン朝を滅ぼして成立。中央アジアを支配。カラは「黒」を意味する。東西トルキスタンを統一。カラ=ハン朝の集団改宗により中央アジアのイスラーム化が進んだ。1132年、耶律大石(やりつたいせき)により滅ばされ、カラ=キタイを建国された。

ガズナ朝

アフガニスタンで建国。11世紀初め頃から北インドへの侵入を開始する。

第3代君主・マフムードの時代

マフムードはインド中西部のソムナートまで遠征。「イスラームの擁護者」と呼ばれるようになった。
 

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