タラス河畔の戦いで唐が中央アジアから撤退したあと、中央アジアのトルコ系遊牧民がイスラーム帝国へと侵入を繰り返した。
サーマーン朝
建国
アッバース朝はイラン系軍人を総督(アミール)として国境においた。しかし、このイラン系軍人が独立してサーマーン朝(875年~999年)を建国。
内政
都・ブハラ
サーマーン朝はブハラに都を置き、東西交易で繁栄した。ブハラは多くの文化人を生んだ文化都市でもあった。イブン=シーナーもこの都市でプトレマイオスの天文学や、アリストテレスの哲学を学んだ。
ガズナ朝の独立
アフガニスタンではサーマーン朝が派遣したマムルークが独立し、962年にガズナ朝を建国。ガズナ朝はアフガニスタン最初のイスラーム王朝。
滅亡
サーマーン朝は10世紀にカラ=ハン朝に滅ぼされた。
地方政権の台頭
混乱に乗じて台頭したのがシーア派の地方政権。
ブワイフ朝
イラン系でシーア派の中の十二イマーム派のブワイフ朝がカスピ海東南海で建国。946年ごろ、ブワイフ朝はバグダードに入城し、少数派だった侵入者たちはアッバース朝カリフを生かしておいて、カリフから大アミールの称号を授かり、合法的に政治・軍事の実権を握った。その見返りとしてブワイフ朝は、スンナ派のカリフを保護するという相互依存の関係を取り結んだ。
イクター制の創始
ブワイフ朝は部族連合国家であり、内紛が続いて不安定であった。そのため、徴税機構が麻痺しており、税が集められなくなった。そこで、軍人たちへの給与(アター)支払いをやめ、一定の土地からの徴税権を付与することで、軍役義務を果たさせるイクター制になった。
ファーティマ朝
貿易経路の盛衰
上記の政治的混乱により、ペルシア湾ーバグダードーシリアの商業ルートから、インド洋・紅海・エジプト・地中海を結ぶルートが復活。
ファーティマ朝の建国
ファーティマ朝は北アフリカのチュニジアで挙兵し、成立。途中アグラブ朝を倒して、969年、首都カイロを建設。ファーティマ朝はシーア派の中でも過激派のイスマーイール派。イスマーイール派は政治的ライバルを次々暗殺する暗殺教団アサシン派で有名。中継貿易である紅海貿易を独占したことで繁栄。
ファーティマ朝の君主は多数派のスンナ派を統治するために、シーア派のイマームとスンナ派のカリフを称して、後ウマイヤ朝やアッバース朝と対立した。3人のカリフが並び立った。ファーティマ朝がこの3国のなかでは、一番強かった。
アズハル大学
ファーティマ朝はカイロにシーア派の大学としてアズハル大学を創設。シーア派の宣教師を各地に派遣した。アズハル大学は現在も世界最古の大学として多くの優秀な学生が学んでいる。イスラーム教徒以外は入学できない。
滅亡
12世紀後半にサラディン率いるアイユーブ朝に滅ぼされた。
アッバース朝の衰退
衰退が進んでカリフは「アッラーの代理人」として軍事指導者に称号を付与することだけが仕事となる。単なる象徴的地位となった。
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