遣唐使
唐の建国
唐の建国を参照。
遣唐使の変遷
最初の遣唐使
日本からの遣唐使(けんとうし)は、630年(舒明2年)の犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)の派遣に始まる。犬上御田鍬は614年の第四次遣隋使でもあった。
遣唐使の再開
遣唐使は702年(大宝二年)に669年以来の遣唐大使・粟田真人らを派遣して再開する。その後は約20年に一度のペースで派遣された。遣唐使船は難波津から派遣された。遣唐使は唐の進んだ政治・文化を日本へ伝える役割を果たした。それらは古代日本の国家体制や文化形成に大きく寄与した。
遣唐使の渡海経路
北路
博多から壱岐・対馬を経て朝鮮半島西岸沿いを進み、渤海湾経由で山東半島に上陸し、陸路で長安へ向かうルート。他のルートに比べて安全なルートであった。
南路
8世紀に新羅との国交が悪化したため、危険を伴うものの五島列島から東シナ海を渡海、長江河口から陸路で長安を目指すルート。帰途は漂流して南西諸島沿いに帰国することも多かった。
遣唐使の苦労
帰国できなかった留学生は多数おり、唐に辿りつけないこともしばしば…。遣唐使による成果は多くの犠牲により成立した。
客死した遣唐使
阿倍仲麻呂
入唐後、朝衡(ちょうこう)と改名し、王維・李白らと交流した阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は、帰国を試みたものの叶うことなく、玄宗に仕えて気に入られ、唐で一生を終えた。
藤原清河
752年の第10回遣唐使に真備と時同じく派遣された藤原清河(ふじわらのきよかわ)は帰国時に渡海に失敗し、その後も安史の乱を理由に帰国を許されず、唐朝に仕えて、生涯を終えた。
渤海との交流
渤海とは
靺鞨族(まっかつー)などを中心に大祚栄(だいそえい)が建国したツングース人の国、渤海(ぼっかい)。内部リンク・渤海を参照。
来朝渤海使
来朝渤海使(らいちょうぼっかいし)は渤海からの使節団で、毛皮や薬用人参などを日本に伝えた。都では鴻臚館(こうろかん)、越前国敦賀の松原客院(まつばらきゃくいん)や能登客院(のときゃくいん)の応接機関で迎えた。来両渤海使は727年以降の約200年間に来日回数は34回を数える。
はじまり
727年(神亀4年)、渤海王が唐と新羅との対抗関係から日本に使節を派遣し、国交を求めてきた。日本にも新羅との敵対関係があったので承諾。
遣渤海使
遣渤海使(けんぼっかいし)とは日本が渤海に派遣した使節団のこと。728年以降、13回にわたって渤海へと派遣された。
新羅との関係
日本は新羅を日本の従属国として扱おうとしたが、新羅は唐の冊封を受けて国力増強していたため日本と新羅の関係は緊張状態だった。しかし、民間交流は活発に行われた。
新羅侵攻計画
唐に安史の乱(内部リンク)が起こり、唐が弱体化し、東アジア全体に波及。渤海からの情報を得た藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は国内の統一をもはかって、新羅への侵攻計画を立てるも、実現しないまま終わった。
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