田中義一は軍人出身です。
当時の日本の首相でしたが、外務大臣も兼ね備えています。
さらには、中国に対しては強硬路線でした。
中国の動向と山東出兵の背景
北伐
国民党の最高指導者となった蒋介石は
1926年に国民革命軍総司令に就任します。
中華統一を目指して軍閥打倒のために、北伐を開始しました。
幣原外交と内政不干渉
若槻礼次郎内閣の外務大臣を務めた幣原喜重郎は、
内政不干渉の原則に沿い、国民革命軍の北伐にも不干渉をとった。
そんな幣原喜重郎外交を「軟弱外交」と、陸軍・国家主義団体・野党の立憲政友会や中国利権の実業家らは非難し、対中国強硬路線を唱える声が大きくなっていきました。
田中外交と対中国強硬外交
1927年、田中義一内閣が成立すると、欧米外交は協調路線を継承しつつも、中国外交は強硬路線を採用しました。
第一次山東出兵
国民革命軍が北伐に伴い山東省に接近すると
田中義一は現地日本人の保護を名目に山東省・青島に軍隊を派遣しました
撤兵の声明
田中義一による日本の第一次山東出兵により
蒋介石は北伐を中止せざるを得なくなり、
1927年8月、田中義一は撤兵を声明しました。
対支非干渉運動
主に左翼系の無産政党の人たちは山東出兵の反対運動を進めました。
対支非干渉全国同盟の結成を呼びかけています。
東方会議
1927年6月、第1次山東出兵のあと、
中国問題の処理のために
東京で外務政務次官・森恪を中心に
外交当局者および軍部首脳を集めて、
東方会議を催しました。
中国問題を処理し、満蒙における日本の権益を守るという
「対支政策綱領」という方針を確認しました。
対支政策綱領
- 満蒙を中国本土から切り離して日本の勢力下に置くこと
- 中国軍閥の対立を助長し中国統一を妨げること
- 日本の権益が犯される時は措置をとること
- 満蒙における日本の特殊地位を擁護すること
が決められた
田中メモランダム
東方会議の結果に基づいて、田中義一が天皇に奏上した文書が中国側に暴露されてしまうという事件が発生しました。
この文書は中国にさらに進出することが書かれており、日本のさらなる攻勢の意図が世界中に暴露されてしまいました。
これを田中メモランダムといいます。
しかし、その文書自体は偽物であったことが判明します。
まっ、スパイがやりあってたんでしょうね。
第二次山東出兵
日貨排斥運動と北伐の再開
中国では日本の第一次山東出兵に抗議して、
日貨排斥運動は燃え上がり
蒋介石は1928年4月北伐再開を宣言し、
山東に迫りました。
済南事件
1928年4月田中義一内閣は第二次山東出兵を行いました。
日本軍と中国の北伐軍が済南付近で激突します。
これが済南事件です。
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