宋の南遷
北宋の滅亡のとき、徽宗の第9子で、欽宗の弟の趙講は、金軍との交渉で、首都開封を離れていた。そのため、金に北へと拉致されずにすんだ。1127年5月に南京応天府で南宋・初代皇帝高宗として即位。健炎と改元する。(宋は五行思想によると火属性なので、宋の再興を意味する。)
主戦派と和平派の対立
南宋と金が激しく交戦する中、南宋内では相次いで乱が起こる。苗劉の変では一時高宗が退位させられる事態になった。そんな中主戦派と和平派が内部抗争を行い、主戦派優位でことはすすんでいた。
秦檜の登場と和議
秦檜の帰国と宰相と挫折
秦檜(しんかい)は北宋末に進士に合格した官僚で、順調に出世街道を進んでいたが、金の攻撃時の開戦論者であったために靖康の変で金に連れ去られてしまった。その後、金の和平論者・タツライの信任を得て1130年10月に帰国。密約を金と交わした説があるが真偽の程は不明。
秦檜は金の内情に詳しい事から、すぐさま用いられ、トントン拍子で宰相に就任。秦檜は金での暮らしの中で考えが和平論者へと変わっていった。しかしながら、岳飛(がくひ)などの主戦派が大勢政権内にはいたため苦戦を強いられる。1132年免職。
岳飛
農民出身、一兵卒から異例の出世を遂げた。文武両道で、学問の方も才でた。徹底抗戦を主張して秦檜と対立。岳飛は今なお愛国者の最たるものとして、中国人にとって人気が高い。尽忠報国の刺青もしれいた。高宗も自ら書いた「精忠岳飛」の旗を与えるほどだった。
秦檜の返り咲きと和議
1137年になると、秦檜は政権中央に返り咲いた。また、金が南宋に対して、徽宗の遺骸と高宗の生母韋皇后の帰国の許可をし、河南などを返す用意があることを提示。南宋にとっては願ってもない好条件だった。
高宗の支持の下、秦檜は徹底抗戦を唱える将軍岳飛などを後述する和議の成立後、処刑。第一次宋金和議を経て、1142年第二次宋金和議が成立。
紹興の和議
紹興の和議(第一次含む)
- 淮河(淮水)の中央を国境とする。
- 南宋の皇帝は金の皇帝に対して、臣下の礼をとる。
- 南宋から金に歳貢として銀25万両、絹25万匹おくる。
- 金は徽宗の棺桶と高宗の生母を南宋に引き渡す。
- 南宋は金の皇帝の誕生日と正月の元旦に使者をおくる
※第一次の地点で、金から河南・陝西(せんせい)の地が返還された。
宋にとっては屈辱的な内容となったけど、しかたないじゃない。
中国国民の秦檜への評価
なお、秦檜は中国人にとっては売国奴とみられている。愛国者と言われている岳飛を無実の罪で捕らえ、処刑したことと、秦檜一族が莫大な財産を築いたこと、華北に金を売り払ったと見られたことがその要因。しかし、秦檜がいなかったら、中華大陸はまた戦乱の時代になったかもしれないことを加味すれば、秦檜を過小評価してはいけないだろう。
金の制度
話は変わって金の内情の話をしておこう。金の太祖(完顔阿骨打)は、遼の二重統治体制を採用し、女真族の部族制である猛安・謀克(ミンガン・ムケ)を採用し、軍事・行政制度にして、華北では州県制を用いた。1153年燕京(現・北京)に遷都。
猛安・謀克
猛安=千を意味し、謀克は邑長を意味する。
謀克は300戸からなりそのリーダーも謀克としょうした。
猛安は10謀克で1猛安となり、そのリーダーも猛安と称した。
戦争時は1謀克から100名だし、1謀克軍。10謀克で1猛安軍=1000人編成となった。
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