十数年にわたる新羅(斯盧国)での人質生活を終え、立派な青年へと成長して故郷・出雲へ帰還したスサノオ。 彼を待ち受けていたのは、愛する母からの手厚い歓迎と、未開の地「須佐郷」の開拓という新たな試練でした。
この記事では、スサノオがいかにして須佐郷の領主となったのか、そして誰もが知る「スサノオ(素戔嗚)」という名前の裏に隠された、衝撃的な歴史の真実について詳しく解説します。
母イザナミの歓待と須佐郷の拝領
紀元227年頃、スサノオは母・イザナミの斡旋により、新羅から出雲国へと帰還を果たしました。 幼い頃から人質として他国へ送り出し、苦労をかけたと心を痛めていたイザナミは、末っ子であるスサノオの帰還を大層喜びました。
イザナミは、スサノオになんとか一角の武将として成長してもらいたいと願い、出雲国の飯石郡(いいしぐん)にある「須佐郷(現在の島根県出雲市佐田町)」の土地を領地として与え、彼をその地の領主に任命したのです。
「スサノオ(素戔嗚)」という名前の真実と蔑称
日本神話で有名な「スサノオ(素戔嗚)」という名前ですが、実はこれは彼が須佐郷の領主になってから付けられた名前であり、本来の彼の名前は出雲熊野大社に祀られている「クシ三ケ命(くしみけのみこと)」であったと考えられます。
さらに驚くべきことに、『日本書紀』に記されている「素戔嗚」という漢字は、古代の言葉通りに素直に読めば「スサナギ」となります。 古代韓国語で読み解くと、「ス」は山、「サ」は山、「ナ」は国、「ギ」は王を意味し、スサナギとは**「山々の国王」すなわち「須佐地方の国王」**という意味を持っていたのです。
では、なぜ「スサナギ」が「スサノオ」と呼ばれるようになったのでしょうか。 それはのちに彼が日本国家(邪馬台国)に対して反乱を起こし、逆賊となって敗北したため、国王の尊号である「ナギ(王)」の字を外され、「男(オ)」に落とされた**「一介の男=スサノオ」という国家からの蔑称(貶められた称語)**だったからなのです。
原始林の開拓と「須佐神社」のルーツ
当時の須佐郷周辺は、縄文人もおらず、草木が生い茂る山々や谷ばかりの原始林でした。わずかに川沿いに弥生人が定住し、猫の額ほどの水田を耕しているに過ぎない辺境の地でした。
スサノオは、数十人の男女の従者とともに、この原始林の開拓へと足を踏み入れます。そして、現在の佐田町大字宮内、須佐神社の前身である宮王山麓の場所に自らの居館を築き上げました。 この時の開拓の様子は『出雲国風土記』にも記録されており、スサノオが「自分の名前は石や木にはつけない」と言って、開墾した田畑に「大須佐田」「小須佐田」と名付けたことが、須佐という郷名の由来になったと記されています。
さらにスサノオは、母イザナミの依頼により、西出雲(神門郡や飯石郡一帯)の豪族どもの統制も実施し、この山岳地帯を開拓することで、一角の領主として君臨するようになりました。この時期、彼が最も信頼した家臣は「クモタラ」「クモジロウ」という兄弟でした。
妻・大屋津姫との結婚と子供たちの誕生
須佐郷の領主として基盤を固めつつあったスサノオは、この時期に妻を娶ります。 相手は**「大屋津姫(おおやつひめ)」**という女性で、おそらく母イザナミの宮殿に仕えていた巫女の一人であったと思われます。イザナミが彼女を大変気に入り、スサノオに勧めて娶らせたようです。
大屋津姫は隠岐の島の妻村出身であり、現在も隠岐の島にある甘竹金加夜(あまたけかねかや)神社には、彼女が祭神として祀られています。
スサノオと大屋津姫の間には、紀元228年から230年代にかけて、以下の4人の子供たちが誕生しました。
- 長男:五十猛命(いたけるのみこと)
- 長女:市杵島姫(いちきしまひめ)
- 次女:湍津姫(たぎつひめ)
- 三女:田心姫(たぎりひめ)
まとめ:青年領主の成長
新羅での人質生活から帰還し、母の期待を背負って須佐郷の領主となったスサノオ。 彼は未開の原始林を開拓して立派な居館を構え、西出雲の豪族たちを統制し、妻を娶って4人の子供に恵まれるという、初々しくも逞しい青年領主としての充実した日々を送っていました。
しかし、歴史の歯車は彼をこの平和な須佐郷に留めてはおきません。のちに日本古代史を大きく揺るがす「英雄であり逆賊」としての過酷な運命が、彼を待ち受けているのです。



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