
開港した日本はてんわやんわ。約2世紀に渡る鎖国をやめたが、まだ準備が整っておらず、国防の充実が急務でした。
前回
阿部正弘
阿部氏10万石の備後国福山藩(現在の広島県福山市一帯)の藩主であった。藩主になったのは1836年の18歳。聡明な藩主として知られており、天保の大飢饉の際にも貯蔵米を放出するなどして、藩内に餓死者を出さなかった。
上様は飢餓を憐れんで米を与えてくださった。
「菅波信道一代記」より
その後1843年、25歳の若さで老中に大抜擢される。
その後の大老・井伊直弼(いい なおすけ)とは異なり、多くの人々から意見を聞き、攘夷か開国かの大きな判断を最小限の被害(通商拒否)で行い、時間稼ぎに成功するのであった。その後、国防や教育にも手腕を発揮する。しかし、39歳の若さで疲労がたたったのか病没する。阿部正弘が生きていれば後の世はどれほど変わったであろうか?
安政の改革
安政の改革の概要
老中・阿部正弘(あべ まさひろ/1819~1857)の一連の政治改革を安政の改革(あんせいのー)という。
安政の改革の目的
- 国内の諸勢力を幕府を中心に結集させること。
- 軍備の強化。
幕政において発言権のなかった、外様大名を幕政に参加させることによって、
多様な意見を集めるとともに、大幅な人材登用を行った。
「交易互市の利益をもって富国強兵の基本とす。」
「安政3年老中達」
安政の改革の内容
政治運営の大転換
朝廷・諸大名への報告
1853年にペリーが来航した直後、老中・阿部正弘はペリーの来日とアメリカ大統領国書について朝廷に報告し、開幕以来の営みを打ち破って、諸大名や幕臣までの末端までに国書への回答を頼み、提出をさせた。幕臣は朝廷や大名、さらには旗本とこの局面に当たろうとした。
諸人への協力要請
藩主
以下の藩主らの協力を得る
- 越前藩主・松平慶永(まつだいら よしなが/1828~1890)
- 薩摩藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら/1809~1858)
- 宇和島藩主・伊達宗城(だて むねなり/1818~1892)
幕臣
以下の幕臣への協力を得る
- 永井尚志(ながい なおゆき/1816~1891)
- 岩瀬忠震(いわせ ただなり/1818~1861)
- 川路聖謨(かわじ としあきら/1801~1868)
徳川斉昭
前水戸藩主・徳川斉昭(とくがわ なりあき/1800~1860)を幕政に海防参与として、幕政に参加させた。
徳川斉昭は電光石火で戦えば、
アメリカを塵にすることも可能だと唱えた。
勝海舟
通商を行うべきと主張したのは旗本の勝海舟。
外冠への備えは交易の利潤をもってあてると唱えた。
国防の充実
台場
伊豆国韮山(にらやま)の代官、江戸川太郎左衛門に命じて江戸湾に砲台を設けるための施設として11の台場(だいば)を築き、反射炉も築き、武家諸法度で規定した大船建造の禁を解き、軍事的な体制固めを急いだ。
講武所
長崎には後世に海軍の母体組織で、洋式軍艦の操作を学ばせるための海軍伝習所(かいぐんでんしゅうじょ)を創設した。幕臣だけでなく、諸藩の学生にも学ばせた。
江戸にはのちの陸軍の中核組織となる幕臣とその子弟らに軍事教育を行う講武所(こうぶしょ)を設けた。
蕃書調所(洋学所)
軍事を中心とした洋楽の教育・翻訳機関として1811年設置の蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)が、1855年に洋学所と改称し、さらには1865年に蕃書調所(ばんしょしらべしょ)と名を変えた。
結果
阿部正弘は朝廷や外様大名さらには一般庶民にいたるまで幅広い全国の人々から意見を聞き、この太平洋の眠りを覚ます一大事に挙国一致体制で挑み、諸大名が自由に幕府へ意見することができるようになった。日本人という概念ができる土壌となった。
反面、その諸刃の剣で幕府の力が相対的に下がってしまい、権威は失墜することとなる。
とくに朝廷を現実政治の場に引きずり出すことにより、朝廷の権威を借りようとした結果がのちのち跳ね返ってくる。
阿部正弘の死去
安政4年、肉体を蝕み、阿部正弘死去。享年39歳
大老・井伊直弼の登場
老中阿部正弘の死後、大老・井伊直弼の時代となる。
諸藩の改革
水戸藩・鹿児島藩・萩藩・佐賀藩などでは、反射炉の建造、大砲の製造、洋式の武器や軍艦の輸入などを行い、軍事力の増強を図った。
越前藩の改革
藩主・松平慶永のもと橋本左内(はしもと さない/1834~1859)、由利公正(ゆり きみまさ/1829~1909/のちの東京府知事)らが藩政改革を主導。
土佐藩の改革
藩主・山内豊信(やまのうちとよしげ/山内容堂(ようどう))のもと、吉田東洋(よしだ とうよう)が大目付として登用される。