明治時代中期

甲午農民戦争とは?なぜ?きっかけは?場所は?をわかりやすく

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朝鮮半島では1884年(十干十二支は甲申きのえさる)に清仏戦争のあおりを受けて甲申事変が起こりました。
清の敗戦で親日派が朝鮮半島で親清派政権にクーデターを起こして失敗して、
日本へ亡命したのでした。

ますます日本と清の対立が深まっていきました。

そんな中、日清の間で天津条約を結んだのです。
朝鮮半島に出兵する際は互いに通告することにしたのです。

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甲午農民戦争とは?(東学党の乱とは?)

1894年(十干十二支は甲午きのえうま/下一桁が4はきのえで戦争勃発が多い年)、朝鮮半島で甲午農民戦争が勃発します。昔は東学党の乱という言い方もしていました。

甲午農民戦争の舞台となった場所は、朝鮮半島の南部にある全羅道ぜんらどう/チョルラドです。

なぜ?東学党の乱という言い方をするのかといえば、西学のキリスト教に対抗して、朝鮮半島で興った民族主義的な宗教団体を東学といい、農民の反乱が大方だったのですが、農民反乱だけではなく、東学党という宗教団体も反乱を起こしたためこういう言い方をします。大変大規模な反乱であったため、朝鮮単独では反乱鎮圧できない規模になっていました。

朝鮮はこの頃も、事大党による親清派政権です。そのため、清に反乱鎮圧の軍隊を要請します。天津条約で事前に軍隊を朝鮮半島に派遣するときは互いに通告することになっていたため、日本も清が朝鮮半島に派兵することを知ります。このままでは清の影響力が増すということで日本も朝鮮半島へ軍隊を派兵しました。

甲午農民戦争は日清両国の軍隊により氾濫は鎮圧されましたが、両国は朝鮮半島に留まったまま両軍はにらみ合いすることとなります。

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