源氏の将軍の時代と源氏の断絶

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源頼朝は超特大の下級貴族である大江広元などを側近に利用し、
その優れた政治的指導力により御家人を巧みにうまく統率していたが、
1199年に源頼朝が亡くなると外戚である北条氏が台頭し
御家人の間の対立が表面化します。

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議奏公卿

源頼朝は右大将と呼ばれました。
源頼朝は朝廷と幕府の間の連絡役を10人決めました。
朝廷と幕府の間の連絡役のことを議奏公卿といいます。

九条兼実と「玉葉」

議奏公卿の一人で行った九条兼実は源頼朝と組んで京都での発言力を強めました。

九条兼実は1185年に内覧、
1186年に摂政となりました。

源頼朝が娘を入内しようとしたのをきっかけとして
1196年に土御門通親により九条兼実を失脚させられ、
鎌倉幕府の朝廷に対する発言力は弱まりました

九条兼実の日記である玉葉は
幕府の正史である吾妻鏡と共に初期の幕府の政治を知る手がかりとなりました。

源頼家

源頼朝の死後、源頼家が将軍となりました。
しかし源頼家は御家人を統率する力に乏しかったため、
母の北条政子はその北条時政と謀って、
源頼家の訴訟の親裁をやめ、有力御家人など13人による合議政治を始めました。

源頼家は伊豆修善寺に幽閉されてしまいます。

源実朝

北条時政は1203年源頼家を排して弟の源実朝わずか12歳で将軍とし。
大江広元と並んで政処別当となり執権と称するようになった。
幕府の実権を握り

1205年には北条時政の子の北条義時が執権となり、
1213年には和田義盛を滅ぼして侍所別当も兼ねました。

源実朝は陳和卿という宋の船大工に命令して、船を作らせて中国に渡る計画を立てていましたが進水に失敗してしまいました。

源実朝もやがて北条義時にそそのかされた源頼家の子公暁によって鶴岡八幡宮で暗殺されてしまいます。

金槐和歌集

源実朝の有名な歌集。金は鎌倉ので槐は右大臣の意味で鎌倉右大臣和歌集ともいいます。

源氏の断絶

ついでに公暁も殺されました。

源氏の血統は3代27年間で終わりました。

執権北条家の時代

北条義時は2歳の九条頼経を京都から迎え将軍としました。
将軍とはお飾りで梅雨時の花以後、北条氏は幕政の実権を握ることとなりました。

 

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