以前、
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でお伝えしましたが、片岡健吉らによって、国会期成同盟が成立しました!!
このような流れの中で、国会をつくることは、誰も異議はなかったのですが、
どのタイミングで作るかということで政府は揉めに揉めました。
その一端がこの明治十四年の政変です。
それでは見ていきましょう。
時期尚早論(伊藤博文派)vs即時開設論(大隈重信派)
政府内部では国会を開設する時期をめぐって対立していました。
伊藤博文たちは時期尚早論を唱えて、「まだ早い、まだ早い」
大隈重信たちは即時開設論を唱えて、「はよせー、はよせー」という
いつものように政権内部で争っていました。
時期尚早論は国会より先に内政の充実が先だというもの。
即時開設論は国会を開いてみんなの意見を聞こうよ。みたいなものです。
これだけでも時期尚早論派の方が優勢だったので、
即時開設論の人たちは外圧で国を変えようとしていた訳です。
時期尚早論の人たちは自分たちエリートだけで決めたい訳ですから国会はしばらく邪魔です。
開拓使官有物払下げ事件
そんな中、即時開設派の大隈重信はある事件をリークします。
それが開拓使官有物払下げ事件です。
黒田清隆と開拓使
開拓使は1869年に設置されていて、
1871年、黒田清隆が開拓使として派遣されます。
1871年から10年間かけて開拓しようとする10年計画が作られました。
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開拓使の払下げ
西南戦争で多額の軍事費がかさんだ明治政府は、
1881年、開拓使の廃止を決定。
まだまだ黒字化するかもしれない時期なのにです。
![](https://xn--mprwb863iczq.com/wp-content/uploads/新橋・横浜間に鉄道開通-160x90.jpg)
三菱汽船に売却することも検討されました。
しかし、三菱汽船は征台の役で利益をあげた会社でした。
黒田清隆は戦争で経済的利益をあげる軍産複合体の三菱汽船への売却を拒否します。
しかし、ここがミソだった。三菱汽船の背後には即時開設派の大隈重信が居たのです。
黒田清隆は役人出身の安田定則の北海社へ売却しますが、
赤字が大きすぎてすぐに倒産の危機に陥りました。
そこで助けの手を差し伸べたのが、
同じ薩摩閥の五代友厚が設立した関西貿易社でした。
赤字なので、当然安く売り払われます。
でもここが付け入られる隙でした。
大隈重信のマスコミへのリーク
三菱汽船と親しかった大隈重信は、
黒田清隆が五代友厚に売却したのは激昂する事態でした。
この報道を受けて世間の人達は踊らされて、
政府へと自由民権運動のプレッシャーをかけます。
大隈重信を公職から下野
時期尚早論の伊藤博文らは大隈重信を勘ぐりました。
- 自由民権運動をすすめること
- 政商・三菱に肩入れすること
ができるのは大隈重信ぐらいだったからです。
そこで大隈重信を政府から追放します。
国会開設の勅諭
こうして、何も知らない沸きに沸いた国民の怒りは大隈重信の下野で頂点に達しました。この怒りを沈静化するために、国会開設の勅諭を発し、9年後の1890年に国会を開くという約束をしました。
明治十四年の政変
この
- 国会開設バトル
- 開拓使官有物払下げ事件
- 大隈重信の追放
- 国会開設の勅諭
までの
一連の流れを明治十四年の政変といいます。
この結果、伊藤博文は政治基盤を確立。
一気に制度改革への流れを作っていくこととなりました。
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