七か条の法度
1559年5月16日、
桶狭間の戦いの1年前、
元康は七か条の法度を出します。
七か条の法度には関口義広や朝比奈親徳などが書かれており、
松平氏は今川家臣として臣従していたことを示しています。
桶狭間の戦い
1560年5月19日、今川義元・織田信長軍に討ち取られます。
桶狭間の戦いと徳川家康(松平元康)
1560年5月19日
徳川家康(松平元康/17歳)は、
大高城(名古屋市)で今川義元討死の
第一報を伝令(メッセンジャー)から受け取りました。
織田氏に味方していた叔父の水野信元は、
さっさと岡崎に帰るように元康へと勧めました。
しかし、家康は岡崎に帰りませんでした。
事態を入念に確認し、
今川義元が死んだことを確証した
松平元康は夜半に大高城を出立しました。
1560年5月20日
松平氏の菩提寺である大樹寺(岡崎市)に入寺。
今川軍が岡崎城から撤退するまで待機します。
1560年5月23日
今川軍の岡崎城から帰還するのを待って、
岡崎城へ松平元康は入城します。
今川義元の死の結果
松平元康(徳川家康)は自立・独立します。
松平氏は戦国大名になります。
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