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経済復興から高度成長へ

岸信介内閣の安保条約の改定と安保闘争と

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経済復興から高度成長へ
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鳩山由紀夫の祖父、鳩山一郎からバトンを譲り受けたのは、
1つ挟んで、安倍晋三の祖父、岸信介でした。
記事を書きながら、歴史は同じではないけれど、繰り返すのだなぁと思いつつ。
安保闘争がメインの話です。
教員の評定や格差拡大は安倍さんのときにも起きましたね~。

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石橋湛山内閣(1956~1957)

鳩山一郎内閣の退陣

1956年9月、鳩山一郎内閣が財界からの要求で退陣を迫られます。
12月、日ソ国交回復と国連加盟を実現したのち、鳩山内閣は総辞職しました。

石橋・岸の総裁争い

石橋湛山(いしばし たんざん/1884~1973)岸信介(きしのぶすけ/1896~1987)が鳩山の後継を巡って、自由民主党総裁の地位を争います。新総裁となったのは石橋湛山です。

短命内閣

1956年12月に組閣します。神武景気の中で積極的な財政政策をとります。日中貿易の拡大や在日米軍への費用削減を試みようとしましたが、病気のために1957年2月に総辞職しました。

陰謀説

石橋湛山の肉声「米国の言いなりになってはならない」を録画で聞く:山田正彦代議士 | 晴耕雨読 – teacup.ブログ
戦後から10年余りに、あまりにも急激に反米的独立主義をとったがためにアメリカに封じ込められたという説があります。今まで日本で長期政権になったものは、親米路線ではないと続いていません。
彼は経済雑誌『東洋経済新報社』の記者でありました。一種のジャーナリズム精神でおこってしまった出来事かもしれませんね。

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岸信介内閣

石橋湛山の指名を受けて岸信介が後継総裁となります。
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A級戦犯容疑者だった岸信介
戦前、商工省の経済官僚として、「満州国」の工業化推進にあたっていた。しかし、東条内閣で閣僚をつとめたことから、戦後、A級戦犯容疑者として逮捕されます。それはしかしながら、不起訴・釈放・追放解除という経歴を辿りました。

日米新時代を唱えて、日米安全保障条約のもつ対米従属性を改めようとしました。それは経済力・自衛力の強化に務めるとともに、日米関係の強化と対等を目指しました。
また、外相に藤山愛一郎を起用し、日本とアメリカと東南アジアの三角貿易の拡大をはかろうとしました。
岸内閣は鳩山内閣にも増して反動的政策をとりました。

国防会議と国防の基本方針

1957年、岸信介内閣は、国防会議を開いて、その中で「国防の基本方針を決定」しました。
これは国家を防衛するための基本的な姿勢として、
自衛隊を近代化して増強しようという方針です。
これを第1次防衛力整備計画といいます。

教員の勤務評定実施

1956年愛媛県がはじめて実施します。
1957年に文部省が全国実施の指示をだします。
教員の思想調査や人事管理によって国家統制を強めようとしました。
そして1958年に教員の勤務評定全国的に実施することを決めました。
先生というのは原則的には生徒を評価する立場にいます。
その先生の働きっぷりを評価しようというものでした。
先生たちにとっては、痛いところを突かれるかもしれない。
特に日本教職員組合で組合活動をしている先生の中には、
それを嫌がる先生も多くいました。
また、当時、1956年に教育委員の選任法が任命制に変わった直後でもありました。
教員と教育全体に対して国家統制が強まった時期での出来事でした。
当然、日教組と総評が勤務評定に猛烈に反発します。
母親も巻き込んだ共闘会議が全国で結成されます。
ちなみに、ときの文部大臣は灘尾弘吉(なだおひろきち)です。

警察官職務執行法の改正案提出

岸内閣は、警察官の権限を強化するために、警察官職務執行法(略称:警職法)の改正案を国会に上程しました。

警察官職務執行法
芦田均内閣のときに1948年制定。警察官の質問・警告・犯罪予防などに厳しい制限を規定していました。岸内閣はこれを改正して警察官の権限を強化しようとしました。

労働運動や大衆運動の弾圧強化のために、警察官の職務権限を強化しようとしました。それは後々に行う安保改定に伴う混乱を事前に予想していたからです。
これに対して、国民は、治安維持法・警察国家の復活だとして
広く国民運動が展開され、「戦犯岸内閣」への非難轟々となりました。
閣僚からも非難され、岸内閣は混乱しました。

ミッチー=ブーム

11月、正田美智子様が皇太子妃とすることが発表され、ミッチー・ブームがおこります。
国民の関心は政治からたくみにそらされてしまいました。

結果

結果として法案は審議未了・廃案となりました。
このような岸信介の政治的手腕は保守派vs革新派、最近よく使われている言葉であれば、右翼と左派の論争を過激化させていきました。

三悪追放

岸内閣は「汚職・暴力・貧困」を3つの悪と捉えて、三悪追放をスローガンにその廃絶を目指します。

「なべ底不況」と経済の二重構造

しかしながら、岸内閣では貧富の差は拡大しました。
1958年になべ底不況が訪れます。
金融引締政策を行っていた事もあり、中小企業の困窮化が進み、
中小企業は大企業の系列店へと成り下がっていきました。
こうして大企業と中小企業の格差はますます大きくなりました。
これを経済の二重構造と言います。

外交政策

簡単に言えば親米・反中路線です。アメリカには従属的に、中国には強圧的姿勢で臨みました。一種の差別外交ですね。この中国に対する政策を敵視政策と呼びます。

日米新安保条約

岸信介は現状の安保条約の問題点を解決し日米新時代の構築を宣言します。

日米旧安保条約の問題点

  1. アメリカに日本の防衛義務が明文化されていない
  2. 条約の有効期限が明示されていない
  3. 在日米軍の行動範囲である「極東」に対する明確な定義がない
  4. 日本の国内争乱に対して、アメリカの介入を認めていたということ

締結

1960年1月、岸信介はワシントンに赴き、日米旧安保条約の問題であった部分を明確化した日米相互協力及び安全保障条約と日米地位協定に調印しました。これを一般に日米新安保条約といいます。

内容

  1. 日米経済協力と日本の防衛力強化の協調
  2. 共同防衛義務
  3. 在日米軍の重大行動に関する事前協議制
  4. 国内争乱への米軍出動条項削除
  5. 条約期限は10年(自動延長)

の5つでした。

安保闘争

安保改定阻止国民会議

この強硬的な決定に対して、革新団体や全日本学生自治会総連合をはじめとする各種の学生団体は、安保改定阻止国民会議に結集します。

これは警職法改悪反対国民会議を発展的に継承したものです。

岸内閣の強行採決

岸信介は「声なき声の支持あり」として、1960年5月19日強行採決を取り、1ヶ月後の自然成立を目指しました。

安保闘争

当時、アイゼンハワー大統領が訪日することになっていました。そこで事前にハガチーという秘書が来日します。しかし、デモ隊に囲まれて身動きが取れず、立川基地から帰ってしまいました。
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国会の周りでデモ隊と警察官のぶつかりあいがおこります。5月20日に10万人、5月27日は17万5000人が国会を包囲したとも言われます。東大生の樺美智子(かんばみちこ)さんはこの最中に命を落としてしまい、ついに死人がでてしまいました。

岸内閣の辞任

新安保条約の成立

1960年6月19日、衆議院の優越に加えて、採択から1ヶ月が経ったので、新安保条約は自然成立しました。
岸内閣はその責任を負うかたちで総辞職しました。
アイゼンハワー大統領の訪日も中止されました。

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