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宋の中央集権化

宋の建国と中国統一とその政策

宋の中央集権化
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趙匡胤らの中国再統一

960年、後周の部将で親衛隊長である節度使趙匡胤(ちょうきょういん)
望があり、部下の将に推されて、後周の皇帝世宗の死後、遼の侵入の危機の中
恭帝から禅譲されて、宋(北宋)を建国皇帝(祖)に即位。大運と黄河の合流点、開封(汴京(べんけい))を都とした。軍人皇帝でありながら、武断政を終わらせる政策をとることとなる。
明上河図(せいめいじょうがず)」には開封の様子が描かれていおり、
現代建築でも困難を極める虹橋(支柱のない橋)が描かれている。
その後、次々と、各政権をなぎ倒し、弟(趙匡義・太宗)の時に、残っていた呉越と北漢を平定し、979年中華大陸を統一した。
(1111年)
弟が兄の子を差し置いて即位したので「千古の疑案」とも呼ばれた。
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文治政治

宋はこれまでの武断政治を改めるために、
徹底した文治政治を行った。

軍事面

更戌法

更戌(こうじゅつ)法を定め、藩鎮(節度使)を解体し、その兵力はすべて禁軍が吸収
また藩鎮が掌握していた行政権や財政権は中央が送り出す文官に役目を順次交代させた。

節度使の廃止

また、地方の節度使段は段々と廃止していったので、此れ以後、ーデターでの政権交代の実現がほぼ無理となった。

枢密院

中央では
それまで武官が握っていた軍の指揮権を
軍事作戦などを司る枢密院(すうみついん)を置いた。
枢密院の長官には文官を置き、武人を政治から排除した
文官が皇帝直属の軍隊を指揮する体制となった。

下省の廃止

唐の三省六部のうち皇帝権力を制限していたのが門下省であったが、唐末や五代十国時代の内乱で、貴族階級が消滅してしまったために、門下省は廃止された。中書省に権力が集中し、皇帝裁を支えた。
 

殿試

科挙の改革も行い、科挙の試験は地方試験の州試と中央の尚書省礼部で行う省試だけだったが、そのあとに採用面接の吏部試(りぶし)があり、家柄が重視された。また、試験官と受験生との間に師弟関係ができたために、貴族の派閥が生まれてしまった。唐末には官僚の派閥抗争が激しかった。
宋代には吏部試が廃止され、その代わりか皇帝自らが試験を目の前で出す殿試(でんし)という学科試験が加わり、三段階試験となった。ちなみに殿試では官僚の序列を決めるだけで、も不合格になることはなかった。さらに、落とされないだけではなく、成績優秀者は特別に前に出て表彰された。
→官僚の皇帝への忠誠心が深まり、また皇帝独裁を支えた。
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大夫階級の誕生

また、科挙の内容が儒教の教養が基本となり、幼少から猛烈な勉強の結果、難関を突できたのは貴族階級は没落したので、小作農に働かせておけば、何十年も働かずに勉強できる富裕な地主階級(形勢戸)の子弟が主で、こうした階級を士大夫階級と呼ぶ。形勢戸は年利200%という高利貸しで非常に潤っていた。
高級官僚を出した官戸徭役の免除などの特権が与えられた。こうして宋代の支配者階級が創られ、君主独裁体制が確立された。
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