徳川家康織田信長

姉川の戦い-場所は?勝敗は?をわかりやすく-

スポンサーリンク
この記事は約3分で読めます。
スポンサーリンク

2023年は徳川家康公の大河ドラマですね。
ちょっとまとめておきますね。

スポンサーリンク

野洲川の戦い-vs六角-

1570年6月4日六角義賢・六角義治親子は南近江の国人一揆を吸収して、先導し、
野洲川やすがわ下流に進出いたしました。

対して
滋賀県野洲市永原城に在城していた柴田勝家佐久間信盛
織田軍を率いて激戦になります。

この戦闘の結果、
六角氏は多くの有力家臣を失い、
六角氏は甲賀衆の元(滋賀県甲賀市)へ逃れました。

ちなみに
甲賀衆の多羅尾氏は、
本能寺の変の際の徳川家康の伊賀越えでも活躍します。

しだいに六角氏は没落していきました。
六角氏は最盛期には100万石超えの大大名でしたが、
結局、トップがダメだとどんな体制でも腐っていくのでした。

野洲川の戦いの後は、
織田氏の支配のもと、南近江は政治的安定を迎えました。

姉川の戦いに向けて


                     

  • 1570年6月19日 織田陣営は浅井領である北近江に進出します。
  • 1570年6月21日 小谷城の城下を放火し、虎姫山(虎御前山)に陣張り
  • 1570年21日~24日 全軍撤退。(浅井氏の本城である小谷城は急峻な山城で攻略は難しいため)
  • 1570年6月24日 長浜市にある横山城を包囲。

姉川の戦い

織田・徳川軍も浅井・朝倉両軍も前日までにきちんと待機していました。

姉川の戦いの布陣の場所

浅井・朝倉両軍

姉川の北岸の長浜市野村町・三田町みたちょうに布陣。

織田・徳川連合軍

織田信長も徳川家康の援軍を用いて、
姉川の南岸の長浜市上坂町付近に陣張りしました。

姉川の戦いの内容

1570年6月28日、

1570年6月28日、
織田信長(37歳)と徳川家康(29歳)連合軍、
2万8000人の軍隊は、
浅井長政(26歳)と朝倉景健(年齢不詳)の浅井・朝倉両軍
合計1万8000人と激突します。

はじまりのきっかけは、
28日の午前6時頃、徳川家康軍と朝倉景健軍が衝突したことにはじまります。
朝倉軍が優勢でしたが、時をおうにつれ、徳川軍があとで優勢になります。

織田軍と浅井軍との戦闘も、最初は浅井軍が押していましたが、朝倉軍がつぶれたあと、
徳川軍に攻め込まれ形勢逆転します。

こうして、浅井・朝倉両軍は総崩れとなりました。

姉川の戦いの結果

姉川の戦いの結果、
9600人が死亡と浅井・朝倉両軍の大敗という記録が残りました。

浅井・朝倉のその後

浅井・朝倉はすぐ崩れた訳ではなく、
まだ残兵が残っており、
姉川の戦いの3ヶ月後の
1570年9月の志賀の陣で延暦寺の門前町の大津市坂本で、
普通にバリバリ信長に嫌がらせの軍隊を派遣していて元気です。

コメント

タイトルとURLをコピーしました