日本には公式に仏教が伝来したことと、
私的に仏教が伝来したことと分けられて考えられています。
仏教私伝
仏教が民間のプライベートで伝わったことを仏教私伝といいます。
皇円という名の平安時代の天台宗の僧侶が書いた
扶桑略記という記録には、
司馬達等が522年に日本へ密かに仏像を持っていった
という内容が書いてあります。
仏教公伝
国王から国王へレベルの仏教伝来を、
仏教公伝といいます。
日本では仏教は、
教科書的には538年説と552説があります。
まぁ、こんなことはテストに出ないので、
どっちでもいいですね。
大事なのは、
百済の聖明王から欽明天皇のもとに伝わったと
教科書的にはされていることです。
538年説
538年説は聖徳太子の伝記である
「上宮聖徳法王帝説」と「元興寺縁起」。
の2つです。
ちなみに538年は戊午の年です。
552年説
552年説を記録しているのが、
「日本書紀」です。
ちなみに552年は壬申の年です。
こういう感じで、
仏教は公式的に伝わったことになりました。
崇仏論争
欽明天皇は公の場で、
仏教の扱いをどうしようか?と
迷いました。
蘇我稲目と物部尾輿の2人に
ディベート対決させます。
蘇我稲目は、中国や朝鮮半島で仏教が信仰されているのに、
日本で拒否することもできない。
と拝仏主義の論でディベートします。
それに対して、物部氏は、
神祇信仰をしていて、
そもそも物部氏は石上神宮を祀っている豪族です。
物部尾輿は仏教導入に反対の立場でディベートしました。
やがて、
世代交代が何代にも発生し、
蘇我馬子・物部守屋の時代でも、
ディベートが終わりませんでした。
このディベートを崇仏論争といいます。
結局、
587年に内戦が起こりました。
戦いの名前はありません。
聖徳太子も四天王の仏像を兜につけて蘇我氏側で参戦しました。
この内戦の結果、物部守屋が滅ぼされました。
仏教興隆の詔
594年、推古天皇の摂政となった聖徳太子は
仏教興隆の詔を出し、
日本は神道だけじゃなく仏教も受け入れることにしました。
聖徳太子が信仰した
四天王が祀られている
四天王寺では鳥居のある寺社として知られています。
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