前漢初期の政治~劉邦から呉楚七国の乱~
未央宮

 

都・長安

皇帝となった高祖・劉邦(りゅうほう)は都を長安に定めた。

  • 渭水盆地の農業力
  • 交配の四川盆地の豊かさ
  • 水運の便
  • 防衛に有利

などが長安を都に定めた理由です。
新都では、
未央宮(びおうきゅう/前漢の宮殿)や前殿、闕などの建設が進められます。

未央宮

郡国制とは

 国の左半分である
前漢の都の長安近くの直轄地には郡県制を行い、
官吏を派遣しました。
長安から遠いところには劉氏一門や異姓の功臣を諸侯として、
領土を与える封建制を併用したものを郡国制といいます。
前漢初期においては皇帝の力は弱く、
皇帝はあくまでも対等な地位にある諸侯の王国からの推薦
という形でしかありませんでした。
しかしながら
しだいに劉氏以外の諸侯は滅ぼされてしまい、
劉氏のみが諸侯となりました。

冒頓単于との屈辱的和解

モンゴル高原では、
匈奴冒頓 単于(ぼくとつ ぜんう)のもと、
初めて統一され強大になっていた。
劉邦は侵入してきた匈奴
白登山(はくとうざん/山西省)で戦ったが破れると
公主(漢の皇族の娘)と贈り物(絹や食糧)をおくって
和平を保つ屈辱的な関係となった

呉楚七国の乱

第6代景帝のとき力をました諸侯に対して、
領土を削減すると、
呉王や楚王を中心とする劉氏一族の7人の諸侯が、
呉楚七国の乱(ごそしちこくのらん)を起こしたが
わずか3ヶ月で鎮圧されると
諸侯は都に移され、
地方の国には中央から官吏を派遣し、
実質的に中央集権制が確立した。
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