前回、ヴェルサイユ行進で、国王一家をパリに連れ帰りましたが、
今回は、また、逃亡する国王一家をまた、パリに連れ帰りました。
フランス革命③ヴェルサイユ行進と国民議会の諸改革
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ヴァレンヌ逃亡事件
ヴァレンヌ逃亡事件の理由→ミラボーの死去
1791年宮廷と議会の朝廷に活躍していた穏健派のミラボーが病死します。
ミラボーの遺体
ミラボーは、宮廷と内通しており、議会の情報を国王に流していました。
そのことが議会にも死後発覚し、ミラボーの遺体はセーヌ川に投げ込まれました。
ミラボーは、宮廷と内通しており、議会の情報を国王に流していました。
そのことが議会にも死後発覚し、ミラボーの遺体はセーヌ川に投げ込まれました。
ルイ16世の命綱であったミラボーの死によって、
フランス国王は国外への亡命を試みるのです。
ヴァレンヌ逃亡事件
革命の急進化に不安を持ったルイ16世とその家族は、
マリ・アントワネットの母、マリア・テレジアの誘いのもと
6月20日パリを脱出し王妃マリ=アントワネットの母国オーストリアへの亡命をはかりました。
しかし、国境近くのヴァレンヌでこの逃亡は発覚し、
国王一家は捕らえられ、パリに連れ戻されました。
この事件をヴァレンヌ逃亡事件といいます。
「国王一家はこの国を捨てたんだ、もはやもう、この国に王権など必要ない」
民衆は国王への不信感を募らせました。
ピルニッツ宣言
1791年8月27日に、
オーストリア皇帝レオポルド2世と
プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が出した
共同宣言。
ピルニッツの由来
オーストリアのドレスデン近くの
ピルニッツ宮殿で出されたためにこの名前になりました。
オーストリアのドレスデン近くの
ピルニッツ宮殿で出されたためにこの名前になりました。
この騒動が革命に進展しないように、
フランスを脅した内容。
ただし、この宣言は、強い意志表示ではなく、
外交辞令程度のものだったと言われています。
マリ・アントワネットの実兄、
レオポルド2世が救いの手を差し伸べたものの、
他国の圧力によって、
フランス国民は団結し、
革命への決意をより強固にしてしまいます。
フランス革命リスト
- フランス革命とその原因と背景
- フランス革命①はじまり~バスティーユ事件と大恐怖~
- フランス革命②~ラ=ファイエットら起草の人権宣言~
- フランス革命③ヴェルサイユ行進と国民議会の諸改革
- フランス革命④ヴァレンヌ逃亡事件の理由とピルニッツ宣言
- フランス革命⑤立法議会とフイヤン派vsジロンド派vsジャコバン派
- フランス革命⑥~オーストリアへの宣戦と八月十日事件~
- フランス革命⑦国民公会とルイ16世の処刑と第1回対仏大同盟
- フランス革命⑧~山岳派の独裁と恐怖政治~
- フランス革命⑨~テルミドールのクーデタと総裁政府~
- フランス革命のまとめ
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