「フランス革命」と聞いて、マリー・アントワネットやギロチン、ベルサイユのばらなどを思い浮かべる人は多いでしょう。 しかし、1789年から約10年間続いたこの革命は、単なる王様の引きずり下ろし劇ではありません。現代の私たちが当たり前のように持っている**「自由」「平等」「基本的人権」といった民主主義のルールのすべては、このフランス革命という血と汗の結晶から生まれている**のです。
この記事では、約10年間にわたる複雑なフランス革命の大きな流れを、当時の「ヤバすぎる庶民の生活事情」などの裏話も交えながら、初心者にもわかりやすく段階ごとに総まとめします。
より詳しく知りたい出来事については、各項目の詳細記事(①〜⑨)をぜひ読んでみてください!
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1. フランス革命はなぜ起きた?(革命前夜)
フランス革命が起きた最大の原因は、**「アンシャン・レジーム(旧制度)」と呼ばれる理不尽な身分制度と、「異常なまでの物価高(パンの高騰)」**でした。
当時のフランスは、人口のたった2%しかいない第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)が広大な土地と免税特権を独占し、残り98%の第三身分(平民)が重税にあえいでいました。 さらに、度重なる戦争や宮廷の浪費(ヴェルサイユ宮殿の維持など)により、国家財政は破綻寸前でした。
教科書には載らない裏話:パン1個が9,000円!?
財政難に追い討ちをかけたのが、長引く悪天候による小麦の大不作です。 冷蔵庫もない当時、庶民の主食は文字通り「パン」のみ(1日1〜2kg消費)。しかし不作と重税(物品入市税など)により、1789年春にはパンの価格が暴騰します。現在の日本円に換算すると、なんと丸パン1個が約9,000円という異常事態に陥っていました。 「パンが食べられないならおがくずや土を混ぜればいい」という絶望的な食卓事情が、民衆の怒りを爆発させる最大のエネルギー源となったのです。
※詳細記事:フランス革命とその原因と背景
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2. 革命の勃発と絶対王政の崩壊(1789年)
財政難を解決するため、国王ルイ16世は身分制議会である「三部会」を招集しますが、議決方法をめぐって平民と特権階級が激しく対立します。 平民たちは独自に**「国民議会」**の結成を宣言し(球戯場の誓い)、憲法制定を要求しました。
バスティーユ牢獄襲撃事件(1789年7月14日)
国王側が軍隊を集結させて武力弾圧を企てると、パンの高騰で飢えと怒りに満ちていたパリの民衆がついに蜂起します。 武器と火薬を奪うため(※囚人の解放が目的ではありません)、専制政治の象徴であったバスティーユ牢獄を襲撃。ここから血で血を洗うフランス革命が幕を開けました。
※詳細記事:フランス革命①バスティーユ牢獄襲撃事件-なぜ?理由は?わかりやすく解説-
フランス人権宣言の採択
農村にまで暴動(大恐怖)が波及する中、国民議会は「封建的特権の廃止」を宣言し、ラ=ファイエットらが起草した**「人権宣言」**を採択します。 「人間は生まれながらにして自由であり、権利において平等である」と謳ったこの宣言は、現代の日本国憲法やSDGs(目標10:人や国の不平等をなくそう)にまで直結する、世界史の超重要ステップです。
※詳細記事:フランス革命②~ラ=ファイエットら起草の人権宣言~
ヴェルサイユ行進(1789年10月)
人権宣言を認めない国王に対し、パンを求めるパリの主婦たちが立ち上がります。包丁や槍を持った数千人の女性たちが、雨の中ヴェルサイユ宮殿まで行進し、国王一家をパリの中心部(テュイルリー宮殿)へと連行しました。
※詳細記事:フランス革命③ヴェルサイユ行進と国民議会の諸改革
3. 国王の裏切りと革命戦争の激化(1791〜1792年)
パリ市民の監視下に置かれ、身の危険を感じた国王ルイ16世とマリー・アントワネットは、王妃の母国であるオーストリアへの逃亡を企てます。
ヴァレンヌ逃亡事件(1791年6月)
深夜に馬車で逃亡した国王一家ですが、国境手前のヴァレンヌ村で市民に見つかり連れ戻されてしまいます。 それまで「革命が起きても国王様は私たちの味方だ」と信じていたフランス国民ですが、「国王は敵国(オーストリア)と結託して自分たちを殺そうとした裏切り者だ!」と大激怒。現代のSNS大炎上以上のバッシング(豚の家族として描かれた風刺画など)を受け、王の権威は完全に失墜しました。
※詳細記事:フランス革命④ヴァレンヌ逃亡事件の理由とピルニッツ宣言
革命戦争と八月十日事件(1792年)
新たに「立法議会」が発足しますが、フランスに革命の波が波及することを恐れたオーストリアやプロイセンが干渉を強めます。これに対しフランスは宣戦布告し、**「革命戦争」**が勃発。 連戦連敗で敵軍がパリに迫る中、「敗戦の原因は国王が敵に情報を流しているからだ」と激昂した民衆がテュイルリー宮殿を襲撃(八月十日事件)。ついに王権は停止され、王政は崩壊しました。
※詳細記事:フランス革命⑤立法議会とフイヤン派vsジロンド派vsジャコバン派 ※詳細記事:フランス革命⑥~オーストリアへの宣戦と八月十日事件~
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4. 処刑、恐怖政治、そして終焉(1793〜1799年)
王制が廃止され、男子普通選挙に基づく**「国民公会」**が成立(第一共和政)。しかし、ここからは「行き過ぎた革命」が自らの首を絞めることになります。
ルイ16世の処刑と対仏大同盟(1793年)
急進派(ジャコバン派)の主導により、ルイ16世はギロチンで処刑されました。国王が処刑されたことに恐怖したイギリスなどの周辺諸国は、**「第1回対仏大同盟」**を結成し、フランスはヨーロッパ中を敵に回すことになります。
※詳細記事:フランス革命⑦国民公会とルイ16世の処刑と第1回対仏大同盟
ロベスピエールの恐怖政治
内外の危機を乗り切るため、ジャコバン派のリーダー・ロベスピエールが実権を握ります。 彼は最高価格令などを出して経済の統制を図る一方で、「革命裁判所」を設置し、反対派や少しでも怪しいとされた人々(マリー・アントワネットも含む)を次々とギロチン送りにする**「恐怖政治(テルール)」**を断行しました。
※詳細記事:フランス革命⑧~山岳派の独裁とロベスピエールの恐怖政治~
テルミドールのクーデタと総裁政府(1794〜1795年)
「明日は自分が処刑されるかもしれない」と恐怖した議員たちがついに結託し、テルミドール9日のクーデタを起こします。ロベスピエール自身がギロチンで処刑されたことで、血塗られた恐怖政治は終わりました。 その後、穏健なブルジョワジーによる「総裁政府」が成立しますが、弱腰な政治により社会不安は収まりませんでした。
※詳細記事:フランス革命⑨テルミドールのクーデタと総裁政府
5. まとめ:そしてナポレオンの時代へ
腐敗した総裁政府に対し、国民は「強力なリーダー」による社会の安定を強く望むようになります。 そこに現れたのが、外国との戦争で連戦連勝を重ねていた若き天才軍人、ナポレオン・ボナパルトです。1799年、ナポレオンがクーデタ(ブリュメール18日のクーデタ)で政府を打倒し権力を掌握。これをもって、約10年にわたるフランス革命は終結しました。
血と混乱にまみれた10年間でしたが、ここで生まれた「自由・平等・博愛」の精神は、確実に現代社会の礎として世界中に受け継がれています。
▼革命の天才児・ナポレオンの活躍についてはこちら! ※詳細記事:ナポレオンの登場と経歴とフランス国民のカリスマ独裁者登場への期待





コメント
フランス革命の絵画にアサシンクリードのアルタイルが居るコラ画像なんですけど、ワザトデスカ?ww
間違っておりました。大変失礼しました。