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帝国主義とロシア-露仏同盟・血の日曜日事件・十月宣言-

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露仏同盟の締結

工業化がすすんで、工業製品の供給量が増えても、国内にはその供給を受け入れる大きな国内市場がありませんでした。そこで国内需要を大きくするためには、国内全土の発展が必要でした。そこでフランスなどから外国資本を導入し、シベリア鉄道の敷設など国家の大プロジェクトが盛んに進んでいきました。

露仏同盟の締結後はさらにフランスからの資本の投入を促進することになりました。

農奴解放後の土地不足と重税に悩む農民は都市へ出稼ぎ労働者となって、彼らの低賃金労働が都市の発展を支えました。

右の女性がフランス、左のヒゲの男性がロシアの擬人化

ロシアの政治集団結成の動き

ロシア社会民主労働党の結党

20世紀の初め、ロシア経済は不況に襲われました。不況下のロシアでは、農民の激しい抵抗運動が繰り広げられました。

南ロシアの工業都市では労働者がストライキが起こしました。

知識階級や学生たちのあいだでは、ロシアの君主専制体制へ批判が強まり、政治の党派結成の動きが高まりました。

プレハーノフらにより、ロシア社会民主労働党が1898年、結成されました。1903年の党大会で、ポリシェヴィキ(意味は多数派/レーニンが率いる/農民・労働者中心)とメンシェヴィキ(意味は少数派/マルトフやプレハーノフが率いる/知識階層中心)に党は内部分裂しました。

社会革命党の結党

テロ実行を容認する社会革命党は1901年に結党されました。

血の日曜日事件

日露戦争において連敗が相続く中、1905年1月22日(日曜日)司祭ガボンに率いられたペテルブルクの労働者とその家族およそ6万人が「労働時間の短縮」と「日露戦争の中止」などを皇帝・ニコライ2世に請願しようとペテルブルグを平和に行進していました。

ところが進隊を抑え込むために、軍隊は発砲します。死者は4000人以上に達したとも言われています。
この事件の話がロシア全土に広がり、第一次ロシア革命の直接的な原因になります。

司祭のガボンは社会革命党によって暗殺されます。

「血の日曜日事件」

十月宣言

ロシア国内での不満のくすぶり

日露戦争での戦況の悪化

日露戦争では、ロシア側から見ると、奉天会戦での敗北。バルチック艦隊の壊滅と主要な戦いで勝つこともできませんでした。

第一次ロシア革命

血の日曜日事件の暴挙により、多くのロシア国民は抵抗運動をはじめました。農民や労働者、知識階層、自由主義者、軍隊、被抑圧民族などなど各集団によって、様々な思惑で国内は騒乱騒ぎになりました。

ポチョムキン号の水平反乱

第一次ロシア革命の1つ。腐った肉入りのボルシチを出され続くて、不満を募らせ艦隊ポチョムキン号の水平は反乱を起こし、上官を逮捕あるいは殺害した事件。

ソヴィエト(評議会)の設置

第一次ロシア革命のさなか、ペテルブルグにおいて労働者代表の自治のための組織・ソヴィエト(評議会)が結成されます。

十月宣言の内容

第一次ロシア革命を受けて、ニコライ2世は十月宣旨を出し、国会(ドゥーマ)の開設と市民に対して部分的自由権を付与します。国会が開設されるので、政党も国会に設置されます。自由主義者は立憲民主党(カデット)を結成します。対して、革命派のソヴィエトは弾圧されます。

ストルイピンの政治

1906年、欽定憲法が発布されストルイピンが首相に任命されます。

ストルイピンの政策内容

  • ストルイピンは革命運動を弾圧。
  • ミール(共同体)を解体して土地私有化を促進します。
    →農民の激しい抵抗に遭って、あまり進まず。

ストルイピンの外交

しばらくは、イギリスやドイツとも親しくする政策がとられていましたが、ドイツがオスマン帝国に接近すると、オスマン帝国と因縁関係であったロシアは反発し、ドイツとは緊張関係になっていきました。

また、大スラブ主義を掲げ、セルビアなどを支援していくようになりました。

ストルイピン

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