モンゴル民族の発展

蒼き狼の大モンゴル帝国(イェケ・モンゴル・ウルス)の建国

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モンゴル民族の発展
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最初は弱小のモンゴルのテムジンは、
父は殺され、妻は孕ませられ、
散々でしたが一族を率いるときがやってきて、
ユーラシアの覇王となる日がやってきます。

それでは見ていきましょう。

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モンゴルの台頭

ウイグル帝国の瓦解

ウイグル帝国の瓦解

9世紀中頃モンゴル高原約1世紀に渡って、
支配してきていたトルコ系ウイグル帝国天災内乱キルギスの侵入により、
ウイグル帝国は瓦解し、ウイグル人は西部に移住していくのです。

瓦解のその後

モンゴル高原の東部はモンゴル系部族が、西部はテュルク系(トルコ系)部族が群雄割拠していました。
モンゴル高原の当時の有力な部族は
  • ケレイト部
  • ナイマン部
  • タタール部
  • コンギラト部

などがあげられます。

当時、モンゴル部はモンゴル高原では、
たいした部族ではありませんでした。

テムジンが蒼狼になるまで

テムジンの誕生とその家族

テムジン(チンギス・カンの幼名)は、
モンゴル部のキヤト・ボルジギン氏族集団に、
  • 父イェスゲイ=バードル(バードル=勇士)
  • 母ホエルン

のもと、名門武家の末流程度の家柄に生まれました。

なお、チンギス・カンの前半生は曖昧な点が多く、
いつ生まれたのかさえ不明です。

テムジンが幼いころに、
父イェスゲイタタール部に殺されてしまうのです。

テムジンの成長

タタールとの戦い
成長したテムジンは父を殺したタタール部を撃破します。
その後、モンゴル部内の氏族集団を統一していきました。
ケレイト部のオン・カンとの盟約と裏切り
その後、ケレイト部のオン・カンと盟約を結んで、
オン・カンに従ってモンゴル高原の統一事業に従事していきます。
しかし、オン・カンの子セングンに疎まれ、
老いたオン・カンも息子に逆らえず、テムジンを殺害しにかかってきます
ケレイトとの戦い
1203年秋
オン・カンらを奇襲して、
モンゴル高原の東半分をテムジンは一気に手に入れることに成功します。
モンゴル高原の統一
1204年春
テムジン、ナイマン部のダヤン・カンを倒す。

オングト部、テムジンに帰属。
1205年春
テムジンはメルキト部とタタール部を制服。
テムジンはモンゴル高原を統一する。

大モンゴル帝国の建国

1206年4月
モンゴル人テムジンオノン川上流域で、その日、一族功臣を集めて、
クリルタイ(モンゴル語で「集会」。実態は宴会のようなもの)を開きました。
そこでテムジンはチンギス・カン(ハン、ハーン、汗)の称号を受けて、
まわりからテムジンはモンゴル高原でモンゴル民族のリーダーとして認められました。
大モンゴル帝国(イェケ・モンゴル・ウルス)が誕生します。
チンギスの意味の説として、
トルコ語の「勇猛な」や
モンゴル語の「強力な」「宇宙の王」
さらには、鳥の鳴き声という説もある

遊牧国家の新体制

チンギスは昔から行われていた部族制を廃止します。
千戸制とい
軍事・行政・社会
などの基盤をなす組織
作りました。
1000軒の家族単位だから千戸制です。
千戸制は配下のモンゴル系・トルコ系遊牧民95(一説に129)
千戸単位の集団に再編成しました。
つまり95×1000で95000の家族が集まったわけですね。
で、その千戸制の各集団ごとに一族や功臣を千戸長に任命する訳です。
千戸制はさっきも書いたように、
戦争をしていない
平和な平時のときは行政単位ですが、

有事の際の戦争が行われているときには
1000人の兵士を動員する戦術単位でもあります。

千戸制の1000人の組織も
十進法によって整備されました。
100人単位の集団と、
その下に10人単位の集団が整備され、
それぞれの集団に百戸長十戸長
設置されました。

族分封

一族には、24の千戸(子のジョチ妻の子でテムジンと血は繋がっていないチャガタイオゴデイにそれぞれ4千戸、弟のカサル1千戸オッチギンに8千戸、死んだ弟の子のアルチダイに残りの3千戸)が与えられます。
残りの千戸はチンギス・カンのもと
指揮官が任命されるのです。

左右両翼体制

さきほどの項で書いた
一族分封のところの子どもたち、
  • ジョチ
  • チャガタイ
  • オゴデイ

が右翼を担い(右翼の諸子ウルス

もう一方を弟、

  • カサル
  • オッチギン
  • 死んだ弟の子・アルチダイ

が左翼を担っています。(左翼の諸弟ウルス

中央の中翼はチンギス・カンとその末子トルイが担います。
ちなみにモンゴルでは末っ子が跡を継ぐのが一般的です。
これを末子相続と言います。

遊牧民族では、末子相続が一般的で、
モンゴル以外でも広く末子相続が行われています。

なので、チンギス・ハンの跡継ぎはトゥルイなはずですね。

このように君主から臣下に人間を分与する体制を
遊牧民的封建制といいます。
ヒャッハーな遊牧民族の世界ですから、
与えられるのは人間で、
人間が功績として贈与の対象となります。
またモンゴル帝国はチンギス・カンウルスという大集団の中に
小さい集団として諸子・諸弟ウルスが存在する2重構造も生じています。
さらに、子どもたちと弟たちを競わせています。

ケシク(親衛隊)の整備

ケシクはモンゴル語で寵愛などを意味し、トルコ語では当番などを意味する。
Civilizationシリーズでは、モンゴルの固有ユニットとして使われていますね。
モンゴル高原統一以前からケシクはありました。
しかし、その人数は150人から1万人に大きく拡大します。
いったい何倍なのでしょう?計算が得意な方はぜひ求めてみましょう。
ケシクの兵士は功臣や千戸長・百戸長・十戸長の子弟から選抜された
エリート集団です。
彼らは4つのグループに分かれ、
3日毎に交替しつつチンギス・カンの身辺を警護します。
戦争を行っていないときは
  • 護衛
  • 宮廷職務
  • 軍馬
  • 衣装の管理、
  • 移動・野営の準備
  • 鷹狩

など幅広い仕事をこなしています。

戦争を行うときはハンの下で戦争に参加します。
モンゴルの重要な仕事にはケシクのメンバーが派遣されました。
その派遣された先の子弟が新たにケシクに加わっていきます。
ケシクは強力な仲間意識をもつ強い権力をもつ集団であり、
支配する人たちを養成する機関でもありました。
支配者は生まれながらにして、支配者なのは古今東西どこも同じですね。
モンゴル帝国

モンゴル帝国の対外侵略

理由

モンゴル帝国は、なぜ、モンゴル高原の外へと侵略の手を伸ばしたのでしょうか?

  • 配下の遊牧民の目を外へ向けさせて、自分へ批判の矛先が向かないため
  • 配下の遊牧民に高原外の戦利品を獲得させるため。
  • 東西交易路(シルクロード)を押さえて、儲けるため。
  • モンゴル高原の人口増加で、草原不足で食料不足だったため。

などの諸説があります。

年表

1207年ツングース系森の民(ホイ・イン・イルゲン)討伐
1208年、ナイマン部残党を滅ぼす
1209年西夏にモンゴル帝国が宗主権を認めさせる。
1211年~1215年第一次対金戦争
金に対して全力で攻撃し、黄河以北を支配し、金はやむを得ず中都(現在の北京)から開封へ遷都
1216年、中央アジア・西アジア遠征を計画。
1218年、ナイマン部のクチュルクが、亡命し皇帝となった契丹族の西遼を滅ぼして、イスラム世界と初めて国境を接する。

1219年、西トルキスタン・イランを支配するイスラームのトルコ系新興軍事国家ホラズム帝国を通商使節が殺されたことを口実に攻撃。
1221年、ホラズム帝国を滅ぼす(正式には1231年滅亡)
ホラズム帝国は、ハザール王国並に、
オカルトマニアにはたまらない国なので、
興味ある人は調べてみてね。

チンギス・カンの死

1227年、中央アジア遠征を拒んだ西夏を滅ぼします
西夏を滅ぼした勢いの中で、
に攻撃をしようします。
しかし、チンギス・ハンは金に向かっている途中の、
六盤山で発病して、8日後、呆気無く病死してしまいます。
チンギス・ハンの遺体はモンゴル高原に運ばれ埋葬されました。
しかし、埋葬された場所はわかっていないです。
一説にはアウラガ遺跡ではないかと言われています。

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