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世界分割と列強対立

ファショダ事件と英仏協商-その結果は?場所は?わかりやすく解説-

世界分割と列強対立
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フランスのアフリカ植地政策

フランスは
ジブチ・サハラ砂漠・マダガスカルを結ぶアフリカ横断政策をとっていました。
ということで、
イギリスのエジプトからケープ植民地を結ぶアフリカ縦断政策と衝突しました。

アルジェリア

1830年、フランスはャルル10世の時代にアルジェリアに侵攻しました。
しかし、アブドゥル・ガーディルの激しい抵抗に遭い、
侵略は遅れました。

チュニジア

1881年、フランスはイタリアと争って、チュニジアを保護国にしました。

ギニア

サモリ・トゥーレがイスラーム国家のサモリ帝国を建てたものの、
フランスの勝利に終わります。

マダガスカル

マダガスカル島では、
17世紀以降にオランダ、イギリス、フランスと進出を競いました。
1896年のベルリン会議でフランスの勢力圏であることが認められました。

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英仏の接触

ナイジェリア・ニジェール

1898年、ゴールドコーストやナイジェリアから進出したイギリスとニジェール川流でフランスが接触しました。

ナイジェリアとニジェール
ナイジェリアとニジェールはどちらもラテン語のNiger「黒」が由来
Nigerのイギリス側の読み方がナイジャー。
Nigerのフランス側の読み方がニジェール。
ちなみに黒人への差別用語「ニガー」はNiggerです。
黒人のネグロイドはラテン語のNegro「黒人」が由来です。

ファショダ事件

スーダンで発生したマフディーの反乱
イギリスのアフリカ侵略~どんどん食われるアフリカの土地~
鎮圧したキッチナー将軍率いるイギリスは南へ進軍し、
スーダンのファショダに到達します。
一方、コンゴからナイル川の上流を目指した
マルシャン率いるフランス軍も
ファショダに到達しました。

1898年、英仏が衝突したのです。
これをファショダ事件といいます。

英仏の話し合いの結果、
一時休戦となります。
その後、国の外交交渉の結果、
フランス側が折れてスーダンはイギリス領となりました。

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英仏協商

ファショダ事件後、海外進出を強化するドイツに脅威を感じた
イギリスとフランスは接近します。
英仏協商が1904年に結ばれます。
百年戦争の頃からの犬猿の仲はここで終わりを迎えます。
この英仏協商により、
フランスはイギリスのエジプトを
イギリスはフランスのモロッコにおける配を
互いに認めあったのでした。

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