ササン朝ペルシア

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古代オリエント世界
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ササン朝(サーサーン朝)アルデシール1世がパルティアを倒して、
クテシフォンを都においた王朝です。

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アルデシール1世(アルダシール1世)

アケメネス朝ペルシア下のペルシア帝国の復活を目指し、
イラン民族の伝統宗教であるゾロアスター教を国教に定めた。
国家の統一と中央集権国家の確立を目指しました。

224年にアルデシール1世(在位/224年~241年)は即位した後、
パルティアの最後の王・アルダバヌス4世を攻略します。

その後、226年クテシフォンを攻略し、
旧メディア地域を支配します。
230年にはメソポタミア全域を支配したと言われます。

シャープール1世

第2代シャープール1世(シャープフル1世/在位/240頃~272年)は、
軍制・税制の改革を図り、
交通網の整備につとめました。

アケメネス朝以来の
「イラン人および非イラン人の諸王の王」と称しました。

東方ではクシャーナ朝を滅ぼして、
インダス川西岸まで領有。

参考 クシャーナ朝

エデッサの戦い

シャープール1世の治世は、
ローマ帝国との戦いの歴史でした。

西方では、内乱と外敵で苦しむ
軍人皇帝時代のローマ帝国に対して、
有利に戦局をすすめました。

260年、エデッサの戦いにおいて、
軍人皇帝ウァレニアヌスを捕虜とした。

ササン朝ペルシアの公用語

ギリシア語やパルティア語も一部使われていましたが、
中世ペルシア語が使われていました。

ただし、中世ペルシア語による公的記録はあまり書かれておらず、
ササン朝に関する資料はほとんどを外部資料に頼らざるを得ません。

商権争い

また、東西交易独占を狙って航路を整備し、ローマ商人が撤退したあとの商権をめぐって、
ペルシア商人とエチオピアのアクスム商人が争った。アクスム王国はアラビア半島南西部まで進出しており、ササン朝には脅威だった。

エフタルの侵入

5~6世紀エフタル族の侵入とゾロアスター教異端の原始共産主義的思想を説くマズダク教が流行して大混乱になる。

ホスロー1世とササン朝の全盛

ホスロー1世ビザンツ皇帝ユスティニアヌスに対抗して戦況有利に。トルコ系遊牧民、突厥と同盟してエフタルを挟撃して滅ぼした。またマズダク教を弾圧して、国力は回復し、ササン朝全盛期へ。

ササン朝の滅亡

ホスロー2世

ホスロー2世の代になるとササン朝ペルシアの領土は最大になります。
アナトリア半島のほぼ全域、ロードス島、パレスティナ、エジプトを
さらに治世末期では、現在のイエメンを領有します。

しかし、軍事費調達に重税になり、
さらにティグリス川大氾濫で危機的状況になります。

ニハーヴァンドの戦い

642年ヤズダギルド3世はニハーヴァンドの戦いで、
唯一神アッラーへの帰依を掲げるアラヴ・イスラーム軍に完敗し、
651年逃亡先メルヴで暗殺され、王朝は滅亡。

ササン朝ペルシアの地方行政

ササン朝後期の地方行政はシャフルを基本単位として、
一般行政・宗教・司法の各職務分担が行われています。

地方行政とゾロアスター教教団組織との緊密な連携も
推定されます。

ササン朝の文化

ゾロアスター教

ゾロアスター教が国教とされ、経典アヴェスターが編纂。しかし、民間宗教に寛容な政策をとっていたため仏教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒が大量にいた。

マニ教

3世紀にはゾロアスター教・キリスト教・仏教など組み合わせたマニ教が創始されたが異端として弾圧された。
(中国では摩尼教と呼ばれた。)

キリスト教ネストリウス派

431年エフィソスの公会議でキリスト教ネストリウス派が異端とされると、ネストリウス派を受け入れた。(中国ではネストリウス派は景教と呼ばれた。)

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