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フランス革命

フランス革命⑥~オーストリアへの宣戦と八月十日事件~

フランス革命
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オーストリアへの宣戦布告

1792年4月、フランスはオーストリアへ宣戦布告します。
オーストリアはプロイセンと結んでいました。
フランス国内は混乱状態であり、
準備不足であったフランス軍は劣勢でありました。

背景

ジロンド派は戦争で革命を強化できると考えました。

https://歴史総合.com/%e7%ab%8b%e6%b3%95%e8%ad%b0%e4%bc%9a/

国王の意向もありました。

 フランス国王ルイ16世の意向
戦争に勝てば王の威信が高まる。
戦争に負ければ革命が終わるかも。

 

ジロンド派内閣総辞職

貴族の司令官たちは戦意に乏しく敗戦が続いて総辞職しました。
ついで、フイヤン派内閣が成立します。

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「祖国の危機」とラ=マルセイエーズ

1792年7月11日、立法議会は「祖国の危機」を宣言しました。
フランスの全国の地方からパリへ向けて、
義勇軍が集結しました。
マルセイユから義勇軍が歌っていた
「ライン進軍歌」は「ラ・マルセイエーズ」として、
現在のフランス国歌となっています。

フランスの国土や革命が危機にひんしたことで、
フランスのナショナリズムが高まりました。

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八月十日事件

1792年8月10日、
パリ民衆と義勇兵及び山岳派は、
ルイ16世の住むテュイルリー宮殿を攻撃しました。

国王はタンプル宮に幽閉され、
事実上王権は停止しました。
また、議会は、
普通選挙による憲法制定議会、
国民公会の招集を布告しました。

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