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モンゴル民族の発展

オゴデイ・カン(オゴタイ・ハン)の治世

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オゴデイの即

クリルタイで推されて、即位したチンギ・カンの第三子オゴデイ。
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対金戦争

チンギス・カンの再開した対金戦争を継承し、
三方(オッチギンの左翼軍、オゴデイの中央軍、トゥルイの右翼軍)からを攻略を試みる。

トゥルイvs金

1232年、トゥルイの右翼軍と金の主軍が会戦。
→金軍の大敗北

金の滅亡

1234年、金の首都汴京(べんけい・開封かいほう)を占領した後、
哀宗は首をつって自殺し、金は滅亡した。
またトゥルイは対金戦争後、急したため
オゴデイやチャガタイらが暗殺したのではないかと言われている。
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オゴデイの政策

総督の設置

1230年属領(華北・中央アジア・イラン)総督を設置しました。
総督
  • 安の維持
  • 課税
などを任せた。

中央政府の設置

1231年中央政府を設置。
内容書記局・・・皇帝の命令の文化・訴訟手続きの制定・課税などを行いました。

カラコルムの建設

1235年モンゴル高原のオルコン右岸のトゥルイの居城だったカラコルム(和林)に首都を建設し、中国風の宮殿を築きました。
カラコルムは人工都市かつ政治都市でもある。
多様な人種・文化が交錯する都市であり、
具体的には
  • 外国人の使者の謁見や臣下を集めて宴会をする万安宮という宮殿
  • 商工業区や財貨・食料を備蓄する倉庫
  • イスラム教・キリスト教・仏教などの寺院

を建設したりしました。

駅伝制の設置

カラコルムを都に定めると、
カラコルムを中心にモンゴル帝国全土に幹線道路を張り巡らすために、
駅伝制(ジャムチ/站赤)1日行程ごとに駅(站(たん))が設置された。
牌符(牌子/パイザとも)をもった用の使臣や軍官には、
宿泊や食料・駅馬が提された。
その結果、は渤海地方から西は黒海地方まで緊密に安全かつ便利になった。
東西の文物の交流も盛んになった

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