ローマのイタリア半島の統一

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ローマ世界とキリスト教の成立
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前回

共和制ローマ-領土拡大と政治闘争と法整備-
...

イタリア半島の統一

エトルリア人やラテン人、山地のサムニウム人
北方からのガリア人にも屈せず、イタリア半島南部のギリシア系植民市群
マグナ・グラエキアを攻略し、前272年イタリア半島制圧します。

ウェイイ包囲戦

エトルリア人の諸都市の1つであったウェイイを
ローマ人は狙います。

ウェイイはローマから北方17kmで、
目の上のたんこぶでした。

第二の建国者として知られ、名将で独裁官カミルスにより、
ウェイイは包囲され、ローマに吸収されました。

カミルス亡命

カミルスは厳格な性格でローマ市民のウェイイ遷都に反対し、
エトルリア人都市ファレリィを略奪せず、無血開城したことにより、
ローマ市民からはあら罪を着せられました。
ローマには「ローマを去った人間の罪は問わない」とあったので、
ローマから出ていきました。

セノネース族のローマ市襲撃

ケルト人の一派、ガリア人の支族セノネース族が、
カミルスをローマから追放した後、ローマに襲撃します。

ローマ人の戦い方は無秩序なセノネース族には通用せず、
ローマ市は襲撃され、紀元前386年頃、カピトル神殿を除く全市が占領されます。

ローマ市民は追放していたカミルスを独裁官に再び就かせました。

「ローマは金ではなく、剣でお返しする」
マルクス・フリウス・カミッルス

カミルスはセノネース族を破り、ローマの危機を救いました。

ラテン市民権

ローマは再々寝返るラテン系諸都市へラテン市民権を与えました。
参政権以外の所有権等のローマ市民権と同等の権利をラテン人に与えたものです。

またラテン市民権を与える代わりに、従軍の義務も背負わせました。
これによりローマ軍は強化されました。

サムニウム戦争

紀元前343年~紀元前290年という50年以上の
ローマとサムニテス人との戦いをサムニウム戦争といいます。

カウディナエの隘路の敗北

紀元前302年、山間のカウディナエ(カウディウム)でローマ軍は包囲され敗北します。

これをカウディウムの屈辱といいます。

サムニウム人の降伏

紀元前290年、サムニウム人は降伏し、サムニウム戦争は終結します。

ピュロス戦争

紀元前286年、ホルテンシウス法を制定し、
ローマ内の貴族と平民の団結を成し遂げたあと、
ローマは南イタリアの大ギリシアマグナ・グラエキアへ侵攻します。

南イタリアは当時、ギリシア植民地で一番栄えており、
マグナ・グラエキアと呼ばれていました。
都市国家タラスは、デュアドコイ戦争で名を挙げた
マケドニアのエピロス王ピュロスを雇い入れました。

ピュロスは2万の軍勢を率いて、イタリア半島南部に上陸します。

ヘラクレアの戦い

南イタリアのヘラクレアとローマ軍とピュロス軍は激突します。
象を率いたピュロス軍にローマ軍は総崩れを起こしました。

アスクルムの戦い

山岳に陣をおいたローマ軍でしたが、
ピュロスは平地にローマ軍を誘い込みます。
ピュロスはまた勝利します。

「ピュロスの勝利」

ピュロスは以上の2度勝利しましたが、多大なる犠牲がでた割には
得るものがあまりありませんでした。

このことから得るものの少ない勝利を
ピュロスの勝利といいます。

ベネウェントゥムの戦い

ローマ軍はピュロス軍に矢を放ち、象は大混乱に陥り、
勝利します。

紀元前272年、タレントゥム陥落。
こうしてローマはイタリア半島を統一しました。

ローマの発展

サムニウム戦争や大ギリシアマグナ・グラエキア(南イタリア)への舗装軍用道路としてアッピア街道建設。
征服都市の配置方法にの待遇に差別を設けて、
ある都市には投票権だけを欠く、
ローマ市民権を与えたり、
他にもラテン市民権同盟市の地位を与えるなどして
協力させた(分割統治

 

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