応仁の乱

応仁の乱の原因・理由

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応仁の乱はなぜ起こったのでしょうか。

応仁の乱に至る背景については別記事で書きました。
今回は原因について見ていきましょう。

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応仁の乱の原因

畠山家・斯波家の相続争い

乱が起こった直接的原因は畠山家内と斯波家内の相続争い。

河内畠山家内

畠山義就vs畠山政久

三管領家の1つ、畠山はたけやま家内で畠山持国はたけやまもちくにの後継者として弟の畠山持富はたけやまもちとみが後継者となっていました。

1448年に、正妻の子ではない庶子の畠山義就はたけやまよしひろに当主を交代。
前の当主の畠山持富は1452年に死去しました。

その後、1454年、義就が庶子出身なのもあり、
義就のことが嫌いな家臣たちが、
前の当主だった畠山持富の長男だった畠山政長を次の当主へ擁立します。

畠山政長を擁立した家臣たちは排斥されたりしたものの、細川勝元や山名宗全の支持を得て、畠山義就を伊賀に放逐します。

しかし、足利義政の支持を得られた畠山義就は畠山政長と当主が入れ替わりました。

1455年、畠山持国が死去し、畠山義就が当主となります。
1459年流浪していた畠山政久も死去します。

畠山家の当主は空いてしまいました。

畠山義就vs畠山政長

家臣たちは今度は畠山政長の弟・畠山政久を擁立する。

以後、河内畠山家は分裂する。今回は山名宗全は畠山義就を支持して、細川勝元は以前からのように畠山政久を支持しました。

斯波家内

斯波家しばけ内でも、惣領の斯波義健よしたけが、1461年に跡継ぎのいないまま死去しました。

一族から迎えられた斯波義敏よしとしと九州探題の渋川家から送り込まれた斯波義廉よしかどが斯波家の家督の跡目を争いはじめました。

細川勝元は斯波義健を支持し、山名宗全は斯波義廉を支持した。

文正の政変

この政変は話せば長くなるので今のところは残念ながら割愛するが、要は足利義政によって斯波義敏が当主にされていたが、政変によって斯波義廉の義父である山名宗全と、細川勝元らによって斯波義敏は追放されて、足利義政はしぶしぶ斯波義廉を斯波家の当主にしたのである。

将軍家の世継ぎ問題

1467年5月,第8代将軍足利義政の跡継ぎを巡って、義政の弟で養子となった足利義視は義政に後継者として指名されていたが、その翌年に9代将軍となる足利義尚よしひさが1465年に生まれたために起こった争い。

義政は政治に飽き飽きしており、三代将軍、足利義満のように銀閣をつくることだけを考えていた。全国の守護が2派に分かれ、京都を戦場として11年間争った乱。

時の権力は、御台所と呼ばれ財力を握っていた義政の妻で、義尚の母である日野富子が握っていた。世の中は失政で乱れていた。

乱の大将

西軍は山名持豊(山名宗全)(やまなもちとよ/そうぜん)、東軍は細川勝元/細川政元。

両軍の陣容

守護大名はそれぞれ両軍に分かれ、
東軍(細川軍)は畠山政長・斯波義敏・赤松政則ら24カ国16万人がつき、
西軍(山名軍)は畠山義就・斯波義廉ら20カ国11万人と呼ばれる大軍がついた。

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