古墳とは、身分が高い首長たちの墓。
古墳時代は3世紀から8世紀始めまでであり、一般に前期中期後期で分けられる。(3世紀後半を出現期、7世紀~を終末期と呼ぶ場合もある。終末期は飛鳥時代・奈良時代と重なる)古墳は墓式で言えば、高塚(たかつか)式墳土。土を盛り上げた、小山のような丘を備えた墓。斜面は葺石(ふきいし)で覆われていた。古墳はこの形をしている。
古墳の形状
前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)
前が方墳(ほうふん)で、後ろが、円墳(えんふん)という形が組み合わさったもの。遺体は円墳に葬った。
天円地方(てんえんちほう)
天は円くて、地上は四角いという考え。この考えが渡来人(とらいじん)により伝えられた。天は円いので、死者は円方に葬られた。ちなみに遺体を納めた人は次の地域一帯の新首長。夜に前首長を円部に納めた。そして引き継ぎの儀式の後、四角い方で、新首長であると宣言した。とする説がある。
前方後円墳の例
箸墓古墳
奈良県の弥生時代の古墳。卑弥呼の墓と伝えられる。古墳出現期の墓としては最大規模。
ホケノ山古墳
最古の前方後円墳。纏向遺跡群の1つ。ホケノ山古墳は主体埋葬部が何重もの木槨墓(もっかくぼ)で、主体部からは精巧な鏡など弥生墳丘墓には見られない豪華な副葬品も出土している。
仁徳天皇陵古墳
別名・大仙(だいせん)陵古墳。百舌鳥古墳群のひとつ。日本最大級の前方後円墳。大阪府にある古墳。全長486m。その周りには、小さな古墳が中央の大古墳を守るように取り囲んでいる。この取り囲んでいる小さな古墳を陪冢(ばいちょう)という。また、濠がほってある。
応神天皇陵古墳
別名・誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳。古市古墳群のひとつ。
造山古墳
岡山県の吉備地方にある古墳。墳丘の長さが全長360mで全国第4位の規模を持つ。
天神山古墳
群馬県にある東日本最大級の古墳。
その他
京都府・大塚山古墳。福岡県・石塚山古墳。
石室
古墳の石室は原則的に1石室1首長だった。
竪穴式石室
竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)は古墳時代、前期中期の埋葬施設の一般的構造。土を盛って、竪に穴をほって石室を作る。
横穴式石室
後期の古墳。盛土したところから、ずっと横へ穴を掘り、突き当りに部分に大きな空間を掘る。トンネル部分は人が1人通れるかの高さ。大きな空間のことを玄室という。トンネル部分のことを羨道(せんどう)という。そして、入り口を大きな岩(閉塞石)で塞ぐ。また死者が出たら、大きな岩をこじ開けて、また棺をいれる。
本来ならば、首長の墓だった古墳もこのように、遺体を何体も追葬する家族墓的構造に変わった。それは有力農民の台頭が考えられる。
棺桶の種類
石棺
棺桶が全部石で出来ている
箱式石棺
石で箱型に作った棺桶
木棺
棺桶が全部木で出来ている。
粘土槨
土だけで囲ったもの。古墳時代の前期・中期によく見られる。
埴輪(ハニワ)
葺石を敷いたとしても、大雨で土砂が流れるので、埴輪は設置された。墳丘墓の周りには埴輪が並べられている。また、装飾用としても意味があり、亡き首長のために玉、鏡など呪術的なものを埋葬した。
形象埴輪
前期はシンプルな円柱型の埴輪(円筒埴輪)が多かったが、家(家形埴輪)、人物(人物埴輪)、動物など形をかたどった埴輪が中期から現れだした。
器財埴輪
形象埴輪の中でも、盾、蓋などの形をした埴輪
古墳の変遷
古墳の発生と日本への伝播(古墳時代早期?)
楽浪郡付近が発生元とみられる。厚葬の木槨墓が朝鮮半島の南部まで広がり、日本にも紀元後1世紀から2世紀にかけて到達する。岡山県の楯築遺跡などの大型弥生墳丘墓がそれである。
→弥生時代の墓
前期
古墳が作られた場所は近畿地方が中心。その上、丘の上が多く、死後もなお、大和平野を支配する意図があったと推定される。古墳時代の前期の副葬品は銅鏡・勾玉など宗教的なものが多かった。
中期
古墳の作られる場所が全国的に拡大。平野部まで進出。この時期に巨大前方後円墳が大和から河内へと移ったと見られている。「河内王権論」が1970~1980年代には話題になった。副葬品は馬具などの武具が多くなった。前期と中期のちがいは副葬品と墳丘形態。
後期
全国的に、山間部にも古墳が築かれた。また、石室の構造が横穴式に変わった。
群集墳
後期古墳の特徴の1つ。山間部や島などにみられる円墳などを中心とする小さな古墳群が密集してできたもの。以下のような今まで古墳があまり見られなかった地域に多くの古墳群が作られた。それらは個人墓ではなく、個人とその家族がともに葬られる家族墓だった。
岩橋千塚 (いわせせんづか)
和歌山県の代表的な群集墳。千がポイント。たくさんあることを示している。
西都原古墳群
古墳時代末期の古墳群。「さいとばるこふんぐん」と読む。宮崎県にある。
奈良の群集墳
新沢千塚古墳群 (にいざわせんづかこふんぐん)・平尾山千塚
吉見百穴 (よしみひゃくあな)
古墳時代末期の墓。埼玉県にある。
騎馬民族説
古墳は前期と後期で姿形が異なる。後期は大陸文化の影響を色濃く受けていること、馬具の副葬品が多く見られることから、シベリアの騎馬民族が朝鮮を経由して日本に渡来し、征服王朝を作ったのだという説がでた。
しかし、どのような馬が使われたのか、馬がどの程度利用されたか明らかではなく、その他の証拠が欠けているとして、反対する説が強い。
装飾古墳
古墳の石室壁面に線刻壁画を書いたもの。代表的な装飾古墳は福岡県の竹原古墳。
高松塚古墳
1972年、奈良県明日香村の高松塚古墳から素晴らしい彩色壁画が発見される。古墳としては末期の7世紀後半の白鳳期のものと想定されている。渡来人によって描かれたものだと思われ、大陸文化の影響を色濃く受けている。
その他
岩戸山古墳
岩戸山古墳には埴輪のかわりとみられる、石人・石馬がみられる。
説話
「・・・墓は、昼は人がつくり、夜は神がつくる。大坂山(二上山)の石を運ぶ。山から墓までを手ごしにして運ぶ。・・・」
説話
天皇陵とは
歴代天皇の陵墓。古事記や日本書紀、延喜式をまとめるときにはすでに捜索を開始していた。
初の学問的調査
松下見林が「前王廟陵記(ぜんおうびょうりょうき)」を1696年に残す。その後、1791年、大和名所図会(やまとめいしょずえ)がまとめられ普及された。
江戸時代後期
『山陵記』を蒲生君平が1808年に書いた。また、聴きこみ調査を行った谷森善臣(たにもりよしおみ)が著した「藺傘(いがさ)のしづく」がある。
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