瀬戸内海の伊予・二名洲(愛媛県)から筑紫(福岡県)の宮殿へと帰還したイザナギは、大殿宮殿に一族や重臣、諸将を集め、一大会議を催しました。 その議題は、**「出雲を攻めるか否か」**という国家の根幹に関わる重大なテーマでした。会議の結論は、全会一致で「出雲を攻める」というものに決したのです。
出雲の歴史のおさらい~斯盧国から大伽耶の支配へ~
なぜ出雲が討伐の対象となったのかを知るために、まずは出雲の歴史を少し振り返りましょう。
紀元前1世紀頃、朝鮮半島南部の弁韓付近にいた倭人たちが海を渡り、出雲への植民を開始しました。その後、紀元2世紀前半の朝鮮半島南部における勢力変動の波を受け、出雲はまず斯盧国(後の新羅)の植民地となります。斯盧国の時代には、国常立尊(くにとこたちのみこと)らが植民地司令官として赴任していました。
やがて大伽耶の勢力が強まって斯盧国を破ると、出雲は今度は大伽耶の植民地へと変わります。大伽耶からは、大殿智命(おおとのちのみこと)やその娘の綾かしこね命(あやかしこねのみこと)といった王族が総督として派遣され、開発が進められていきました。
このように出雲は大伽耶の分国であったにもかかわらず、長い年月を経て、本国である大伽耶や筑紫の奴国、邪馬台国とは全く異なる独自の文化や政策を持つようになっていったのです。
イザナギが絶対に譲れなかった「2つの対立点」
イザナギが出雲討伐を決意した最大の理由は、出雲が持つ2つの独自路線が、自分たちの国是と決定的に対立するものだったからです。
宗教の違い(太陽神 vs 銅鐸信仰)
第一の対立点は「宗教」でした。 イザナギたちが築いた大伽耶や筑紫の国々は、「太陽神」銅鐸信仰が崇拝されていました。
縄文人への対応(討伐・殺戮 vs 共存・国民化)
第二の対立点は「縄文人への政策」です。 筑紫の国々は、先住民である縄文人を「文化の低い野蛮人」とみなし、徹底的な討伐や殺戮、迫害を行っていました。対して出雲は、もともと人口が少なかったこともあり、縄文人を同胞として受け入れ、**共に国づくりに参加させる「共存・国民化」**の道を選んでいたのです。
出雲討伐は「縄文人討滅」の一環
イザナギにとって、この2つの対立点は絶対に譲歩できないものでした。もしこれらを許容してしまえば、太陽神信仰を国是とする自らの建国の基礎が根本から崩壊してしまうからです。
同じ日本列島内に、自分たちと宗教や人種政策が全く異なる国が別個に存在し、独自路線を歩み始めている。この事態を放置しておくことは、征服欲の強いイザナギには到底耐えられないことでした。 さらに、出雲の銅鐸信仰を根底で支えているのは、筑紫が討滅を図ろうとしている縄文人たちでした。出雲は彼らを国民として受け入れることで、国家の形を強固なものにしつつあったのです。
「今のうちに出雲を叩いておかねば、大変なことになる」
イザナギはそう確信しました。彼にとって出雲討伐とは、単なる領土の拡大ではなく、自らの国づくりにおける**「縄文人討滅の一環」**として位置づけられた、避けては通れない聖戦だったのです。

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