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太古時代

イザナギへの服属!「物部氏」のルーツと多婆那国の滅亡~布津族の誕生から物部氏へ~

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古代日本史において、軍事と祭祀を司り、強大な力を持った名族「物部氏(もののべし)」。 彼らのルーツを遡ると、はるか海を越えた中国東北部(満州)から朝鮮半島、そして北部九州へと至る壮大な民族移動の歴史が見えてきます。

この記事では、物部氏の祖先である「布津族(ふつぞく)」がいかにして日本列島に国を築き、そしてどのようにしてイザナギの軍門に下り「物部氏」となっていったのか、その歴史的背景を紐解いていきます。

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狩猟民族・穢族(ワイ族)の南下と新天地

紀元前1世紀頃、満州から朝鮮半島東部の山岳地帯にかけて分布していた「穢族(ワイ族)」という狩猟民族がいました。彼らは早くから朝鮮半島東部の開山部へと広がり、畑作や漁労に従事するようになり、農耕民族に近い生活を送るようになっていました。

紀元前70年頃、穢族の大酋長は配下の数万人に命じて朝鮮半島の東海岸を南下させ、民族大移動を起こして辰韓(しんかん)へと侵入を開始します。辰韓の人々は抵抗を試みましたが、人口も多く戦いに慣れた穢族には敵わず、講和の末に穢族の支配を受け入れました。 辰韓一国を支配した穢族は「昔氏(せきし)」と名乗りました。これは韓国式訓読みで「ワイ族」を意味する言葉だったとされています。

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北部九州の「多婆那国」と布津族の誕生

その後、穢族は辰韓から船団を組んで日本海を南下し、日本列島の北部九州である筑前国(福岡県)の遠賀郡・遠賀川流域へと進出し、その地を占領しました。

穢族はこの地に「多婆那国(たばなこく)」という国を建てました。多婆那国とは、古代韓国語で「本国より外れた領地(外の領地の国)」という意味でした。王家は昔氏を名乗り、氏族名として「布津族(ふつぞく)」を称しました。 「布津」とは、古代韓国語で「東の外れの港のある土地」「外の領地」を意味し、辰韓の穢族を本領とするならば、日本列島にやってきた穢族は「外の領地の人々」という意味になります。つまり「布津族」とは、日本列島にやってきた穢族の総称だったのです。

この多婆那国は、紀元前19年に新羅(斯盧国)で大夫(総理大臣)となった瓠公(ここう)や、紀元42年に新羅へ渡り後に第4代国王となった昔脱解(せきだっかい)といった傑物を輩出しています。

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イザナギ軍との激突と多婆那国の滅亡

筑前国(福岡県遠賀郡・遠賀川流域)の布津族の国は、紀元3世紀初めまで続きました。 しかし紀元3世紀初頭、朝鮮半島の弁韓・大伽耶からイザナギの軍勢が日本列島の九州島に渡来してくると、遠賀川流域の布津族の国もイザナギの軍勢と対立するようになります。

数年間、双方は小競り合いを繰り返して戦いましたが、結果として布津族の国である多婆那国はイザナギの軍勢に敗北してしまいます。その領土は、イザナギの本領である奴国(なこく)の一部として組み込まれることになりました。

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布都努志命の服属と「物部氏」の始まり

敗れた布津族は、イザナギの配下に下ることを余儀なくされました。 この時、布津族は一族の話し合いによって頭領を選出し、「布都努志命(ふつぬしのみこと)」という人物を頭領に立てて、臣下としてイザナギのもとへ向かわせたのです。これにより、布津族はイザナギの配下として服属することになりました。

後年、この「布津(ふつ)」という言葉に対して「物(ぶつ)」という漢字が当てられるようになります。そして、布津族の人々は「物部(ぶつべ)」と呼ばれるようになりました。「部」とは従属民を意味します。 この「物部(ぶつべ)」という呼び名が一人歩きし、後世になって「物部氏(もののべし)」と呼称されるようになったのです。

遠賀川流域の物部氏の一族には、鶴田物部、贄田物部、当田物部、酒木物部、芹田物部、馬見物部、木久物部、島門物部、赤間物部などがおり、当時の頭領が布都努志命でした。 紀元3世紀前半、物部氏はこのようにしてイザナギの臣下として服属し、日本古代史の表舞台へと姿を現すことになったのです。

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