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太古時代

イザナギの豊の国(豊前国)進出~関門海峡の封鎖と「大山等豊秋津島」の誕生~

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紀元221年頃、アマテラスオオカミ(卑弥呼)の「鬼道」によって筑後・佐賀平野一帯(邪馬台国)に政治的安定がもたらされると、建国者であるイザナギは次なる目標へ向けて動き出しました。 それは、未知の海域である「東方(瀬戸内海)」への巨大な遠征です。

この記事では、イザナギがどのようにして豊の国(現在の福岡県東部)へ進出し、関門海峡でどのような重要な戦略を実行したのか、そして新たな拠点「大山等豊秋津島」の真実について詳しく解説します。

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瀬戸内海へ向けた巨大水軍の出航と「地乗り航法」

イザナギは、筑紫、大伽耶、金官、多婆那国の軍事力を動員し、約2000人の兵士と60〜70隻からなる巨大な水軍部隊を編成しました。そして、博多湾から東へ、豊の国(福岡県東部・豊前国)へ向けて出航します。

当時の航海術は羅針盤などなく、陸地を見据えながら海岸沿いを進む「地乗り航法(ちのりこうほう)」でした。夜間の航行は不可能であり、晴天や追い風を待つ「日待ち・風待ち」を繰り返しながら、近辺の港に寄港してゆっくりと進む危険と隣り合わせの航海でした。

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豊浦村への「卒(役所)」設置と「鉄の東方搬入禁止」

玄界灘、響灘を経て関門海峡へと至ったイザナギは、この海峡を「戦略上の要地」と位置づけました。そして、下関近くの豊浦村(現在の山口県下関市長府町付近)に「卒(そつ:役所)」を設置します。

イザナギはこの豊浦村の初代長官に、服属させたばかりの布津族(後の物部氏)の頭領・布都努志命(ふつぬしのみこと)を配置したと考えられます。 そして彼に、一つの極めて重要な命令を下しました。それは**「関門海峡を通過するすべての船を検閲し、鉄製素材・商品・武器を絶対に東方(本州東部)へ通過させてはならない」**というものでした。

イザナギはこれから進出していく東方の未知の国々に対し、自軍の絶対的な優位性を保つため、最先端技術である「鉄」が渡ることを厳重に封じ込めたのです。

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今川河口への上陸と「大山等豊秋津島」の誕生

関門海峡を抑えたイザナギの水軍部隊は、さらに周防灘を東進し、九州の企救半島を南下します。門司、小倉、苅田を過ぎ、ついに「今川」という大きな川の河口に上陸を果たしました。

イザナギはこの地に新たな植民地(開墾地)を設置し、その地を**「大山等豊秋津島(おおやまととよあきつしま)」**と名付けました。 古代の言葉で読み解くと、「王氏(大伽耶)および倭国支配下の豊国と名付けられた、最高の開墾地である港もある国」という意味になります。

この場所は、現在の福岡県行橋市および京都郡(みやこぐん)一帯にあたると推定されます。のちに邪馬台国の首都が移されたため「京都郡」と呼ばれ、また日本列島の港もある土地という意味で「仲津郡」と呼ばれるようになりました。

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巨大要塞「馬ヶ岳神籠石(御所ヶ谷神籠石)」の築城

イザナギは、この新たな領土と一族を守るため、防衛拠点として巨大な「朝鮮式山城」を築き上げました。それが現在に残る**「御所ヶ谷神籠石(ごしょがたにこうごいし)」**です。

本来は「馬ヶ岳(うまがたけ)神籠石」と呼ばれていたと考えられ、標高218メートルの「最高に良い、高くて大きい山」に築城されました。東西900メートル、南北600メートルにわたって列石がめぐらされ、城門や水門、見張り台などが備えられた堅牢な要塞でした。戦乱の時代、大陸から渡来した人々にとって、こうした山城は命を守るために不可欠な防衛施設だったのです。

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まとめ:月読尊と中臣氏の領地へ

こうしてイザナギによって征服・開拓された豊前国(福岡県東部)の京都郡一帯は、後にイザナギの次男であり、邪馬台国で強大な水軍を統括することになる「月読尊(つくよみのみこと)」の領地となりました。そして、この地には月読尊の長男である思兼尊(おもいかねのみこと)や長女の豊浦(とようら)が住むことになります。 また、その南に位置する仲津郡は、のちに朝廷の祭祀を司ることになる名族・中臣氏(なかとみし)の祖先に与えられました。

邪馬台国の勢力は、関門海峡という物流の首根っこを抑え、豊の国をも自らの領土(大山等豊秋津島)として飲み込むことで、東方進出への強固な足がかりを築き上げたのです。

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