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太古時代

イザナギの伊予・二名洲(愛媛県)進出と出雲討伐への決断

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紀元222年頃、福岡平野や豊の国(豊前国)の平定を終えたイザナギは、さらに東の未知なる世界、瀬戸内海へと巨大な水軍を進めました。 この記事では、イザナギがいかにして「伊予・二名洲(いよのふたなしま)」すなわち現在の愛媛県へ進出し、そこでどのような歴史の転換点となる「出雲の影」と遭遇したのかを詳しく解説します。

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瀬戸内海東進と「伊予・二名洲」への上陸

イザナギは、大伽耶や金官国の軍事力を動員し、約2000人の兵士と60〜70隻からなる水軍部隊を編成して博多湾を出航しました。玄界灘から関門海峡を抜け、周防灘、伊予灘、そして来島海峡を通過して燧灘(ひうちなだ)へと至る大航海でした。

そして彼らが上陸したのが、当時の人々が「大陸のような巨大な島」と思っていた四国島、現在の愛媛県西条市にあたる沿岸部でした。 日本書紀には、イザナギが「伊予の二名洲」を生んだと記されていますが、この言葉を古代韓国語で読み解くと、その壮大な意味が浮かび上がります。

  • 伊予(いよ):「聖なる大きな島」すなわち四国島全体を指す言葉。
  • 二名洲(ふたなしま):「最も外れたところにある、海から行く那国」。

つまりイザナギは、この四国島を自分の本国である「那国(なこく)」の分国と位置づけ、その支配を誇示するために名付けたと考えられます。

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石鎚彦の誕生と巨大要塞「永納山神籠石山城」

イザナギはこの地に上陸すると、現地の豪族の娘を側室に迎え、**石鎚彦(いしづちひこ)**という男児を儲けました。イザナギが筑紫へ帰還した後も、石鎚彦はこの地に残り、母方の実家を継いでこの地の領主(豪族)となったと推測されます。現在も愛媛県西条市にある石鎚神社には、この石鎚彦が祀られています。

さらに、この地には彼らの強大な防衛力を示す遺跡が残っています。それが標高133メートルの永納山(えいのうさん)に築かれた古代の朝鮮式山城、**「永納山神籠石(こうごいし)山城」**です。全長2.6キロにも及ぶ列石や水門が構築されたこの巨大要塞は、炭素年代測定により2世紀から3世紀のものと推定されており、まさにイザナギの進出時期と見事に一致します。イザナギがこの城を築城し、のちに石鎚彦が領主として君臨した防衛拠点だったと考えられます。

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讃岐国への偵察と立ちはだかる「出雲の影」

伊予の地を拠点としたイザナギは、さらに東の讃岐国(現在の香川県)へ向けて、約100名の偵察隊を船で派遣しました。 しかし、彼らが持ち帰った報告は、イザナギに大きな衝撃を与えるものでした。

讃岐国の村々には、人口1000〜2000人規模の小国が無数に存在していましたが、その人々はイザナギたちが信仰する太陽神ではなく、銅鐸を最高神として祀り、蛇神や水神を敬う、全く異なる宗教圏に属していたのです。 さらに驚くべきことに、彼らが信仰する銅鐸神の最高神とは、**出雲に坐す「大己貴命(おおなむちのみこと:出雲国王)」**であり、讃岐の村々は出雲を主君として仰いでいました。彼らはイザナギの軍勢には一切協力せず、「米一粒たりとも提供しない」と敵対的な態度を見せ、なんと偵察隊の半数(約50人)を殺害するという事件まで引き起こしたのです。

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まとめ:出雲討伐への決意

「自分たちが信じる神とは全く異なる神が存在し、しかもそれが強大な勢力を誇っている」。この現実は、武力と太陽神信仰による列島平定を目指すイザナギにとって、到底許容できるものではありませんでした。

銅鐸信仰を叩き潰さなければ、この日本列島の統一は成し得ない。イザナギはそう痛感し、これ以上の東進を一旦諦めて筑紫へと兵を引き返しました。帰路の船中で、イザナギの胸中には**「出雲王国を討伐しなければならない」**という冷徹で強固な決意が、深く刻み込まれていったのです。ここから、日本古代史を揺るがす「出雲討伐」への運命の歯車が回り始めることになります。

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