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太古時代

イザナギの淡路島占領と「多賀宮」の建設~名族・大和氏のルーツと貴種思想~

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吉備国(岡山県)で強大な同盟を結んだイザナギの次なる目標は、瀬戸内海のさらに奥深く、近畿地方への入り口に位置する「淡路島」でした。

紀元226年頃、イザナギは筑紫・奴国(なこく)の軍事力を動員し、約2000人の兵力と60〜70隻の水軍部隊を率いて再び東方への大遠征を開始します。この記事では、イザナギがいかにして淡路島を無血占領し、その地に拠点を築いたのか。そして、現地の女性との間に生まれた男児が、のちに近畿地方を代表する名族「大和氏」となっていった歴史的背景を詳しく解説します。

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瀬戸内海東進と「淡路(あわじ)」の語源

博多湾を出発したイザナギの水軍部隊は、玄界灘から関門海峡、周防灘、伊予灘、斎灘(いつきなだ)、備後灘と瀬戸内海を次々と東進していきました。途中で小豆島を占領した後、播磨灘を抜けてついに「淡路島」へと向かいます。

日本書紀には「イザナギは淡路島を生む」と記されていますが、この「アワジ」という地名には古代韓国語で壮大な意味が込められていました。

  • ア: 最高
  • ワ: 外の外れ
  • ジ(チ): 土地

当時の筑紫(邪馬台国)から見れば、淡路島はまさに**「東方の最も外れた遠方にある、最高の土地」**だったのです。

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多賀への上陸と「多賀宮(伊弉諾神宮)」のルーツ

イザナギの船団は、淡路島の西海岸沿岸部、津名郡一宮の「字 多賀(現在の兵庫県淡路市一宮町多賀)」へと上陸しました。 「多賀(タガ)」という地名も、古代の言葉で「タ(土地)」「ガ(耕す)」、すなわち**「開墾地」**を意味します。

当時の淡路島は、人口およそ5000〜6000人程度の小国であり、イザナギの大軍に抵抗する力はなく、戦いを交えることなく無血占領されました。 イザナギはこの多賀の地に、自らの巨大な居館として**「多賀宮(たがのみや)」を建設します。これこそが、現在の淡路島に鎮座し、イザナギ尊を主祭神として祀る日本最古級の神社「伊弉諾(いざなぎ)神宮」**の始まりなのです。日本書紀などには、イザナギが国家統治の権限をアマテラスに委ねたのち、この地に「幽宮(かくりのみや)」を構えて余生を過ごしたと伝えられています。

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アワジヒメとの出会いと「貴種思想」

淡路島を占領し多賀宮を築いたイザナギは、その地で地元の豪族の娘を側室として迎え入れました。名前は定かではありませんが、ここでは仮に「アワジヒメ」と呼びましょう。 イザナギはこの若く美しいアワジヒメを殊のほか気に入り、これからの晩年の数年間をこの淡路島で暮らすことになります。

これは、古代に広く見られた**「貴種思想」**と呼ばれる婚姻政策でした。 地方の豪族は、中央からやってきた高貴な人物(イザナギ)に自らの娘を差し出し、そこに男児が生まれれば、その子を自分たちの跡取り(当主)として迎え入れます。そうすることで、自分たちの家柄に「中央の高貴な血筋」を組み込み、一族の権威を飛躍的に高めることができたのです。

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「天之生玉命」の誕生と名族・大和氏の始まり

目論見通り、イザナギとアワジヒメの間には一人の男児が誕生しました。その子は**「天之生玉命(あめのいくたまのみこと)」**と名付けられました。

イザナギは、このアワジヒメの実家である地方豪族を大変重用し、彼らに**「大和(やまと)氏」**という高貴な豪族名を与えました。 イザナギの思惑は明確でした。淡路島の多賀宮を近畿地方における自らの活動拠点とし、そこで生まれた天之生玉命の家系(大和氏)を、これからの近畿地方を統率する強大な一族に育て上げようとしたのです。

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まとめ:近畿への足がかりを確立

  • 淡路島占領: 紀元226年頃、イザナギの水軍は瀬戸内海を東進し、淡路島を無抵抗で占領した。
  • 多賀宮の建設: 淡路島の西海岸「多賀」に居館を構え、これがのちの伊弉諾神宮となった。
  • 大和氏の誕生: 現地の豪族の娘(アワジヒメ)との間に天之生玉命を儲け、「大和氏」として近畿地方の統率者に仕立て上げた。

淡路島を手に入れたことで、イザナギの勢力はいよいよ日本の中心部である「近畿地方」のすぐ目の前まで到達しました。東方遠征の集大成ともいえるこの拠点の確立は、日本列島の古代史をさらに大きく動かしていくことになります。

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