則天武后の政治
7世紀末
則天武后(そくてんぶこう)(武則天ぶそくてん)(位690~705)は,
太宗の後宮(こうきゅう/皇妃が住む場所)に入り、655年に高宗の皇后となり、
高宗の晩年には代わって政務を行うようになった。
高宗の死後、すでに即位させていた自分の息子の中宗をわずか2ヶ月で廃し、
次に即位した中宗の弟で則天武后の傀儡の睿宗(えいそう)をも退位させ、
自ら帝位につき、聖神皇帝と称し、国号も唐から周(武周)に改めた。(武周(ぶしゅう)革命)
中国史上唯一の女帝となった。
中国三大悪女・武則天
中国では昔から、則天武后は儒教的女性観も加わって、
極悪非道の君主として西太后や呂后と並んで中国三大悪女の1人に数えられた。
例えば、高宗の前皇后の手足を切断し、酒樽にいれたり、
酷吏と呼ばれる秘密警察官僚を用い、
陰惨な恐怖政治を行い、反対勢力を弾圧した。
しかし、近年、これらによって
勢力ある功臣や有力な貴族官僚が除去され、
科挙を重視して才能あるものを積極的に登用したので、
中央集権化が進み、貴族政治を打破したという評価する声もある。
周
武周とも呼ばれる。則天武后一代限りの王朝。
今までの儒教的価値観では、男尊女卑の倫理があり、
それに対抗するために、仏教を重視した。
それに対抗するために、仏教を重視した。
仏教を統治に利用した
則天武后は自身の登場を弥勒菩薩の下生を引き合いに出して、
それを根拠付ける『大雲経』を全国各州に大雲寺を設置し、経典も備え付けた。
それを根拠付ける『大雲経』を全国各州に大雲寺を設置し、経典も備え付けた。
これは日本の国分寺制度の模範となった。
また、科挙官僚を積極的に登用したり、則天文字を作ったりした。
韋后の政治
則天武后の死後、中宗が復位して、唐が再興されたが、
中宗の皇后である韋后(いこう)が、中宗を毒殺して政権を奪い混乱が続いた。
睿宗の息子である李隆基(のちの玄宗)がクーデタによって
政治混乱を収束した。
この則天武后(武則天)と韋后にかけての政治混乱した時期を
「武韋の禍(ぶいのか)」とも呼ぶ。
これは後世の政治家が儒学的な女性蔑視の立場から名付けたものである。
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