安史の乱とその後の混乱
節度使の反抗
安史の乱に際して、唐朝は藩鎮(はんちん)をくまなく配置して、各地域の防衛の任に就かせた。長安陥落により門閥貴族は没落。門閥貴族は官人営業田という名目で広大な私有地を持っていたが、武官の節度使は計算が苦手だった。そこで、事務員として雇われたのが新興地主層の形勢戸である。形勢戸は官僚として藩鎮に雇われ、藩鎮もまた強大な地方権力に成長した。藩鎮はしばしば中央に反発して唐を苦しめた。中でも河朔(かさく)三鎮と呼ばれる河北の3節度使は世襲するなど、半独立状態にあった。
宦官の皇帝超え
また安史の乱のあと、皇帝の親衛隊(神策軍しんさくぐん)を掌握した宦官が絶大なる権力を握ったために、皇帝を動かし、政治が乱れたために
「門生天子、定策国老」と称された。
(唐の科挙は合格者が試験官に特別な礼をするのが一般的だったために、天子=皇帝=受験生、国老=宦官=試験官に例えたもの)
牛李の闘争
官僚も出自や政策の違いで、牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)と李徳裕(りとくゆう)をリーダーとして牛李の闘争と呼ばれる激しい派閥争いが起こり、唐の衰退に拍車をかけた。
民衆の困窮化
経済においても、経済の発展に伴い貧富の格差が拡大し、
土地を捨てて、佃戸と呼ばれる小作になる農家が続出。
→均田制・租庸調制は完全に崩壊
両税制
780年徳宗の宰相楊炎によって両税制が採用される。しかし、徴税権は藩鎮が握っていたので税収は増えなかった。
両税制内容
- 土地所有を公認
- 戸を単位として土地の多い少ないで課税
- 毎年夏・秋に徴収する
これは明代半ばまで続けられた。
塩の専売制
限度を知らない宦官の発案により、原価の十倍以上もする塩の専売が安史の乱のころより始められ、国家の重要な財源となったが、民衆の困窮は増大した。
価格
塩1,000円につき税金30,000円。肉の保存に塩が必要だった。そのため、塩の密売人が登場する。
唐の滅亡
黄巣の乱
9世紀後半になると、科挙の落第生で唐を恨んでいた塩の密売人の黄巣(こうそう)が仲間の王仙芝(おうせんし)とともに塩の専売廃止を求めて挙兵し、貧窮で苦しむ民衆が次々と参加し、巨大民衆反乱となった。これを黄巣の乱と呼ぶ。広州ではアラブ商人を虐殺している。日本は894年、この乱のために遣唐使の派遣を中止。
唐の滅亡
黄巣の乱の平定
黄巣は長安を占領したが、唐の滅亡だけを考えていだだけで、さらに唐の政府は密売人同士の対立を煽り、反乱軍から黄巣の部下の立場から寝返った朱全忠(しゅぜんちゅう/のちの後梁太祖)により乱は鎮圧された。
鎮圧の見返り
反乱を鎮圧した見返りに開封の節度使の地位が与えられた。開封は大運河と黄河を連結した地点にできた大商業都市であった。
唐の滅亡
ここの徴税権を握った朱全忠は907年、唐の皇帝を呼び出して殺害。長安に居た門閥貴族、宦官を虐殺し、唐を滅ぼした。開封で即位して後梁(こうりょう)をたてた。
中国は五代十国時代の混乱時代へ突入する
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