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江戸時代

〜関ヶ原の戦後処理〜江戸幕府を支えた基盤づくり①

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家康から徳川慶喜にいたるまで250年間の幕府を支えたのはこんな施策があったからなのです。

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大名の処遇

大名とは?

1万石以上の領地を与えられ、将と主従関係を結んだ武士のこと。

1石(ーこく)は因みに1年間にその当時1人あたりが食べる米の量のこと。石は単位である。石高(こくだか)が米の収穫量の単位である。
大名の基準の例外
下野国(しもつけのくに・栃木)の喜連川氏(きつれがわー)は5千石で大名の基準に満たないが、石高の上では10万石格の大名である。蝦夷の松前氏も石高は無石だかだったが大名として認識されていた
一方、出羽国(でわのくに)の生駒氏(いこまー)は1万5千石の石高ではあったが、大名として認められなかった

関ヶ原の戦いの賞罰

関ヶ原の戦い
1600年の9月、美濃国(現在の岐阜県)ので行われた天下分け目の戦いと称される、関ヶ原の戦いで徳川家康率いる軍が石田成率いる西軍に勝利を収めた戦のこと。

加増された大名

加増とは?
 大名が所有する領地の石高が増えること。つまり、大名の支配領地が増えることをさす。

家康側である東軍についた徳川に昔から親しかった大名や徳川の家臣。

改易された大名

改易とは?
 改易(かいえき)とは大名が所有する領地の石高がなくなること。つまり、大名の支配領地を没収され、お家が取り潰されることをさす。

徳川家康は大名90家、440万石を改易した。

宇喜多秀家

かつて、五大老という豊臣秀吉の時代に重要な役職についていた宇喜多秀家(うきたひでいえ)は西軍についたがために、改易され流罪となり、八丈島へと島流しに遭う。

減封された大名

減封とは?
 減封(げんぽう)とは封建されて大名が所有する領地の石高を減らされること。つまり、大名の支配領地が減ることをさす。

西軍のみにつき、減封でんだのは3大名。

上杉景勝

上杉謙信を叔父にもち、会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)は実際に関ヶ原では戦しなかったものの、直江状などで家康を挑発したがために120万石から30万石の大名へと減封されることとなった。因みに彼も大老であった。

毛利輝元

毛利元就をに持ち、西国一の大大名であった毛利輝元(もうりてるもと)ではあるが、西軍の大将として関ヶ原の戦いに石田三成に頼まれ参戦。敗戦後、毛利輝元は減封され、120万石から37万石の大名になった。因みに彼も五大老であった。
 

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