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第1次ノモンハン事件

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1939年5月11日

ハルハ河東岸の
外蒙古と満州の国境未確定地区で
ソ連・モンゴル軍と日本・満州軍が衝突しました。

関東軍第23師団は即座に出動を準備しました。
23師団長の小松原道太郎中将は、
1939年4月下旬から示された
「満ソ国境紛争処理要綱」というマニュアルにより、
外蒙古軍の侵入を受けて、
外蒙古軍撃破に向けて
マニュアル的に出陣を指示。

関東軍司令部に報告。

植田関東軍司令官は小松原道師団長の動きを承認。
日本本土の参謀総長にさらに報告。

参謀次長も
「関東軍の適切な処理に期待する」
と回答。

1939年5月13日-15日

外モンゴル軍を満州軍が攻撃。
外モンゴル軍はハルハ河西岸に撤退。

小松原師団長はマニュアルの目的達成のため、
ハイラルに帰還します。

1939年5月21日

ソ連・モンゴル軍は再びハルハ河東岸に侵入。
小松原師団長は「満ソ国境紛争要綱」の
マニュアルに基づいて機械的に対応。

5月21日再び攻撃命令があります。

関東軍は、
「ソ連。外蒙古軍が一歩越境したからといって、早急、不用意に出動するのは急襲成功の道ではない。しばらく機会を伺って、相手が油断したとき、突如立ち上がって一気に急襲することこそ採るべき策案」

として、5月21日電報が届く。

これに対して、
小松原師団長は、
「すでに出動命令を出した以上は、これを中止することは統帥上不可能である」

として、あくまでも反撃強行を主張しました。

辻政信は、
現場の小松原師団長の立場と、
関東軍の満州を俯瞰する立場と
日本本土の国際感覚の立場との、
違いと述べている。

1939年5月23日

植田関東郡司令官は小松原師団長の主張を承認。
5月23日、参謀中央部へのこのノモンハン事件への処理方針について報告。
関東軍として事件を拡大しないようにとの主旨を伝達した。

参謀本部ロシア課の判断

ソ連側には事件拡大の意図はないと慢心的に判断。
関東軍は航空兵力の増強と外モンゴル内部を爆撃しない限りは、
小競り合いで穏便に済ませるよう考えた。

1939年5月24日

参謀本部の次長から関東軍参謀長への返事は、
「関東軍として適切な対処をとるよう要望する」
とだけだった。

相手の立場を考える余裕がなかったのかもしれないですね。

1939年5月27日

第23師団の山県支隊は、ハルハ河へ向かって進撃。
圧倒的なソ連軍の砲撃を浴びせられ、
200名は孤立、そのままソ連軍により全滅しました。

1939年5月31日

小松原師団長は5月31日、攻撃部隊に撤収命令を出して、
第一次ノモンハン事件は終わりを告げた。

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第一次ノモンハン事件の解説

マニュアル通りに動いて、敵の数などを見積もらず
ただただ相手が出てきたら出動するというもので、
責任は23師団の長、小松原師団長にあったでしょう。

しかし、次の第二次ノモンハン事件は関東軍の命令により、
第23師団が動き、大敗した事件です。

また、今度書きますね。

 

 

 

 

 

 

 

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