禁門の変(蛤御門の変)とは?
八月十八日の政変で、
失った朝廷内での勢力を
長州藩は取り戻そうとしていました。
長州藩、カンバックのやけにでた訳ですよ。
長州藩は池田屋事件をきっかけに、
長州藩のこれ以上の犠牲を出さないために
1864年7月、長州藩は再び藩兵を京へ上らせました。
しかし、迎え撃ったのは、
幕府側の会津藩・薩摩藩・桑名藩の藩兵と、
京都の御所付近で戦い、
長州藩は会津藩と薩摩藩と桑名藩の幕府側に敗れてしまいます。
すでに情報が漏れていたのと、
山口の田舎の装備では、
この当時は厳しいものがありました。
これを、禁門の変(きんもんのへん)といいます。
昔は蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)ともいいました。
コラム:長州藩と会津藩・薩摩藩
長州藩vs会津藩
特に、会津藩は江戸幕府きっての、
忠臣として知られており、
のちの戊辰戦争、
さらには明治時代以降、
さらには平成の頃も、
山口県出身の首相が、
福島県の原発に津波対策を、
施さなかったなど、
宿敵関係になっていきます。
長州藩と薩摩藩
この当時は、
長州藩と薩摩藩は、
攘夷運動派の長州藩と
幕府で官位がほしい薩摩藩とは
水と油、犬猿の仲、月とスッポン?の関係で、
その後、1つにまとまるとは、
この当時の人たちはまるで思っても見ませんでした。
明治維新は、
ひとえに薩摩藩が、
幕府側と手を切って、
長州藩の側についたのが大きいです。
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