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永楽帝の治世と明の隆盛と南海諸国遠征

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明・清代の中国と近隣国
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永楽帝の内政

宦官の復権

永楽帝は宦官を重く用いました。

内閣大学士

永楽帝は政治の最高機関として新たに内閣を設置しました。
その内閣に内閣大学士(ないかくだいがくし)という皇帝の顧問を
最重要の政務に参加させました。

洪武帝時代の殿閣大学士が、
この名前に変りました。

北京遷都

永楽帝は1421年に自らの根拠地であった北平(ほくへい)を北京と改称して遷都しました。
金陵(きんりょう)を南京に改称して副都となりました。
華夷秩序を打ち立てるためには、北から南にかけて支配する北京体制に転換する必要がありました。それは単なる対モンゴルのためだけではなく、東アジアと北アジアを統合する華夷一家建設のためでもありました。
北京は北方民族の台頭に対応することができる都でした。
https://歴史総合.com/blog/2014/10/20/241
https://歴史総合.com/blog/2014/10/27/342
https://歴史総合.com/blog/2014/05/28/108
のいずれも北京を拠点に置きました。明が南京から北京に遷都するのも、
北方民族対策としては当たり前の判断でした。
 

万里の長城の修復

万里の長城を修復し、北方民族の南下に備えました。
 

永楽帝の外征

鄭和の南海遠征

鄭和とは?


鄭和(ていわ)は、雲南省晋寧県昆陽の代々イスラーム教徒の家に生まれました。
本姓は馬氏。燕王(のちの永楽帝)に仕え、
靖難の役で功績を上げ、内官太監(ないかんたいかん)に任ぜられ、
鄭和の名前を授かりました。

鄭和の南海遠征

1405年~31年までの間、
7回にわたり太監隊を率いて南海遠征を行いました。
当時のヨーロッパのガレー船の数十倍の規模の宝船(ほうせん)と呼ばれるジャンク船
2万人以上を乗せた大航海を敢行しました。
第3次までは、東南アジア・インド南西岸までいたり、
第4次以降は、ペルシア湾・アラビア・さらにアフリカ東岸・マリンディにまで達しました。

南海遠征の結果、30余国が明に服属して朝貢貿易を行いました。

鄭和もイスラーム教徒であったことから、
彼はその部下をイスラーム教の聖地、メッカに巡礼させました。

 

モンゴルの親征

北京を拠点に、
1410年から5回にわたり、みずから軍を率いて
モンゴル高原へ遠征しました。

親征とは皇帝自らが遠征に参加すること。

洪武帝が北元を滅ぼした後に台頭した、
東のタタール(韃靼部/だったんぶ)、西北のオイラト(瓦刺部/わらぶ)を撃退しました。
 

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