森喜朗内閣を覚えている
生存している方も多いでしょう。
私は記憶にございません。
幼稚園ぐらいの話ですから。

森喜朗さんは、
銅像を建てるようです。
今までいろんな功績がありますから、
まぁ、当然かもしれません。
今日は森喜朗内閣(2000年4月-2001年4月)に
ついては生存されてますから、
批判にならない範囲で見ていきましょう。
森喜朗内閣の成立
小渕恵三が脳梗塞で倒れました。
青木幹雄官房長官が首相代理として、
政権運営を担う混乱の時代でした。
「政治的空白をつけてはならない」
そんな中、登場したのが、
当時・自民党総裁の森喜朗でした。
森喜朗は小渕恵三の閣僚を引き継いで速やかに内閣を成立させました。
小渕恵三内閣は、自自公連立政権でした。
小沢一郎率いる自由党が政権離脱したのに加えて、
保守党が政権与党に入り、
自民党・公明党・保守党の3党連立内閣として組織しました。
森喜朗内閣の立法実績
森喜朗内閣の主な功績は、
ストーカー規制法の制定です。

1999年埼玉県桶川市で起きた21歳の女性が、
元交際相手の仲間に殺された事件を受けて成立しました。
森喜朗内閣での出来事
森喜朗は辞めるタイミングが良かったといえます。
なぜなら辞めた5ヶ月後、アメリカで9.11事件が起こります。
早くやめておいて正解でした。
タイミングよく辞めれました。
九州沖縄サミット
2000年7月、第26回主要国首脳会議(G8サミット)九州沖縄サミットが開かれました。
九州沖縄サミットはたった800億円以上の経費で済ませて政治問題になりました。
えひめ丸撃沈事件
2001年2月10日、愛媛県の水産高校の生徒がアメリカの潜水艦に転覆させられた事件。
“”アメリカ海軍所属の原子力潜水艦グリーンビルが海面への浮上中に宇和島水産高校の漁業練習船えひめ丸と衝突し、沈没した事件。えひめ丸の乗組員・教員・生徒のうち、9名が死亡し、26名は救出されたが、1名が骨折、11名が軽傷、9名がPTSDと診断された事件。
Wikipedia-「えひめ丸事故」-を参考して編集
森喜朗はその時、「私が(官邸に)行かないことで何が問題だ」という名言を発言されました。
何も知らないトップが現場や命令指揮系統に行っても邪魔になるだけ。
森喜朗は何もしないことで、
逆にリーダーシップを発揮しました。
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