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平安時代後期

日宋貿易について~音戸の瀬戸・大輪田の泊・誰が?・輸出入品~

平氏は平忠盛以降、日宋貿易にも力を入れだします。平忠盛の政治日宋貿易の背景11世紀後半以降、日本と高麗・宋との間で商船の往来が活発となり、12世紀に層が北方の女真の立てた金に圧迫されて、南に移ってからは南宋との通商も盛んに行われるようになっ...
平安時代中期

平安時代の国際関係と刀伊の入寇

9世紀から10世紀にかけての東アジアの動乱の結果、日本は積極的な孤立政策をとるようになる。安史の乱などによって荒れ果てた中国には訪れる意味はなく、宋の時代になっても国交は開かれなかった。しかし、民間の貿易は盛んになっていった。  また、女真族が攻めてくるこれを刀伊の入寇という。
古墳時代

ヤマト政権の成立と政治制度

ヤマト政権とは古墳時代前期に畿内で形成された政治連合。政治連合の首長は「大王」 (おおきみ)。勢力範囲雄略天皇が中国の宋の皇帝に送った上表文や、千葉県稲荷台1号墳から出土した鉄剣や、埼玉県稲荷山古墳から出土した鉄剣、それに熊本県江田船山古墳...
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宋の中央集権化

宋代の文化-士大夫が中心となった「ひきこもり」の繁栄の特徴-

宋代の学問・思想宋学(朱子学)経典の字句解釈ばかりだった漢~唐にかけての訓詁学を否定し、代わりに宇宙論や人間論を展開し、同時に知の実践に重んじた新たな儒教学。北宋の周敦頤(しゅうとんい)は太極図説(たいきょくずせつ)を書き、宇宙論からの、道...
古墳時代

5世紀の日本と宋書倭国伝と倭の五王-讃・珍・済・興・武-

5世紀の日中関係『宋書』倭国伝 (そうじょ/わこくでん)宋書そうじょ・倭国伝わこくでんとは、5世紀の日本のことが書かれてある中国の歴史書。宋書を編纂したのは、沈約しんやくです。倭の五王倭の五王とは、讃珍済興武の5人の王のこと。次々と中国へと...
宋の中央集権化

宋の社会

形勢戸と官戸と佃戸唐末から台頭してきた宋代の新興地主層は形勢戸と呼ばれ、そのうち官僚を出した特権階級層は官戸という。官戸は戸籍に明記され、差役の免除など役の減免などの特権が一代に限って与えられた。彼らは大土地所有者たちで、彼らの土地を荘園と...
宋の中央集権化

南宋の成立と金の繁栄

宋の南遷北宋の滅亡のとき、徽宗の第9子で、欽宗の弟の趙講は、金軍との交渉で、首都開封を離れていた。そのため、金に北へと拉致されずにすんだ。1127年5月に南京応天府で南宋・初代皇帝高宗として即位。健炎と改元する。(宋は五行思想によると火属性...
宋の中央集権化

靖康の変と北宋の滅亡

靖康(せいこう)元年(1126年)の冬、金は宋のこれまでの嘘や約束違反を責めて、開封を占領。莫大な財貨や芸術品とともに、上皇徽宗や皇帝欽宗、宗室や官僚総勢約3000人が北に拉致された。これを年号をとって靖康の変(せいこうのへん)という。北宋は滅亡した
宋の中央集権化

神宗の宰相・王安石の新法~その政策の内容は?~

11世紀後半、財政破綻を克服するため、第6代皇帝神宗(しんそう)は改革を目指した。神宗に登用されて約7年の間、宰相として改革を実施したのが官戸出身の王安石(おうあんせき)。彼は政治家にして唐宋八大家の文人でもある。王安石は「紅一点」という言...
宋の中央集権化

西夏(せいか)

唐末、黄河が曲がるオルドス地方で発生したチベット系民族がタングート族で東西交通の要衝の地である敦煌を押さえて、その利益で強大化した。初めの頃、太祖(趙匡胤)はオルドス方面に対して、羈縻政策(ゆるくつなぎとめる支配)を行っていたが、982年、...
宋の中央集権化

耶律阿保機の遼(大契丹国)建国から滅亡と西遼まで

遼の成立北アジアに強大な勢力をふるっていたトゥルク系のウイグルは、840年にイェニセ川上流のキルギスにより崩壊して、西遷します。これは北アジアの民族交替を意味します。ウイグル人からキルギス人へと変わっていきました。この間に現れたのがモンゴル...
宋の中央集権化

宋の外交的敗北~澶淵の盟と慶暦の和約~

文治主義の結果、宋は対外的な軍事力が下がり、そのため、北方や西方から遊牧民が絶えず、やってきては侵入することに対し、常に守勢となった。つまり、対外的には消極的だったということである。1004年契丹族の遼と澶淵(せんえい)の盟を結ぶ 莫大な歳...
宋の中央集権化

宋の建国と中国統一とその政策

趙匡胤らの中国再統一960年、後周の部将で親衛隊長である節度使・趙匡胤(ちょうきょういん)が人望があり、部下の将兵に推されて、後周の皇帝世宗の死後、遼の侵入の危機の中、恭帝から禅譲されて、宋(北宋)を建国。皇帝(太祖)に即位。大運河と黄河の...
宋の中央集権化

五代十国時代

朱全忠が建てた後梁(こうりょう)は中華大陸を統一することなく、わずか16年で滅び、そののち、後唐、後晋、後漢、後周とたった50年の間に華北で5王朝が入れ替わった。後唐、後晋、後漢は突厥系節度使(沙陀部)が建てた王朝で、後唐(都は洛陽)以外は...
モンゴル民族の発展

元末の情勢と紅巾の乱

元末の情勢元末の混乱14世紀、クビライの次の成宗の死後、帝位継承をめぐり相続争いが続いた。帝位継承制度がクリルタイのままだったので、一族の権力争いが続いた。代表的な例として、上都派と大都派にわかれた混乱である天暦の内乱が起こる。それに加えて...
モンゴル民族の発展

第2回日本遠征(弘安の役)

第2回日本遠征(弘安の役)の目的モンゴル帝国は南宋を滅亡させた後、元朝にとって南宋の兵士の取り扱いが問題になりました。 南宋の兵士に俸給を払う→財政圧迫 南宋の兵士を放置→兵士が不満→反乱そこで、南宋の兵士の中から志願者を募り、海外遠征に振...
モンゴル民族の発展

第1回日本遠征(文永の役)

遠征の目的元朝1274年南宋に対する総攻撃を開始。一方、日本が日宋貿易を活発に行なっていたため、元朝は南宋と日本が極めて親しい関係にあると認識。南宋攻撃中に、背後から日本の派遣を懸念したモンゴルは、日本に元軍の強さを見せつけるため、及び日本...
隋・唐時代の繁栄

唐の書道

書道唐では書芸が大切に扱われ、科挙でも筆跡が重要視された。唐初は六朝時代の王羲之(おうぎし)の書風が重要視され、これを伝播する欧陽詢(おうようじゅん)と虞世南(ぐせいなん)は太宗に招かれて、貴族の子供や兄弟に、楷法を伝授した。この2人に褚遂...
隋・唐時代の繁栄

唐の文学

唐の時代は盛んに唐詩が作られる。初唐六朝時代を受け継いで、優雅なな作品が好まれた。文章形式は四六駢儷体が尊重されたが自由な形式も見られるようになった。盛唐詩仙と称される天才・李白(りはく)や詩聖と称される秀才・杜甫(とほ)が代表的である。2...
モンゴル民族の発展

元の成立と大都の建設-クビライのクーデタ-

元の成立モンケの死によって、後継者を決めなくてはならなくなりました。しかし、モンケの子供たちは20代と若く即位できず、モンケの弟のフレグは遠征中のため即位できませんでした。そのため、後継者はクビライ(フビライ)とアリクブケ(アリクブカ)に絞...
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