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明治時代初期

「親中派 vs 親日派」の泥沼劇!壬午軍乱と済物浦条約がまねいた朝鮮危機の歴史

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明治時代初期
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1880年代の朝鮮半島は、欧米列強や日本、そして従来の宗主国である清国の思惑が渦巻く中、国内の政治勢力が「守旧派(親清派)」と「開化派(親日派)」に真っ二つに分かれて激しい権力闘争を繰り広げた激動の時代でした。

今回は、当時の対立構造の軸となった2つの派閥と、その中で起きた歴史的事件「壬午軍乱」および「済物浦条約」について詳しく紐解きます。

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1. 政治対立の構図:守旧派 vs 開化派

朝鮮の最高権力者である高宗(李太王)の周囲では、その家族や政治方針を巡って激しい主導権争いが行われていました。

■ 守旧派(親清派)

  • 中心人物: 大院君(李太王の父)、閔氏一族の一部
  • 政治スタンス: 伝統・保守派。鎖国政策の維持と、清国との伝統的な上下関係・結びつきを重視しました。
  • 特徴: 急激な西洋化や開国に反対し、これまでの儒教的な秩序や伝統を守ることを最優先としました。

■ 開化派(親日派)

  • 中心人物: 閔妃もんぴ(李太王の妃、一時は開化派と接近)、金玉均、朴泳孝など
  • 政治スタンス: 革新・改革派。日本の明治維新をモデルとして、朝鮮の文明開化と近代化を急速に推し進めようとしました。
  • 特徴: 欧米や日本から技術や制度を取り入れ、近代国家への脱皮を図りました。
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2. 壬午軍乱(じんごぐんらん / 1882年)

近代化を進める中で、軍隊の待遇改善をめぐる不満から大事件が勃発します。これが1882年に起きた壬午軍乱です。

  • 背景(兵士の不満):近代的な軍隊(別技軍)が新設され、そちらには手厚い待遇や近代兵器が与えられた一方、旧式軍隊の兵士たちは長期間給料(米)の未払いに苦しんでいました。
  • 事件の勃発: 支給された米に糠や砂利が混じっていたことからついに兵士の怒りが爆発。暴動を起こした軍士らは日本公使館を襲撃し、政権の中枢へと迫りました。
  • 大院君の一時政権掌握: この混乱に乗じて、失脚していた大院君が再び政権を掌握し、一時的に鎖国・保守体制へと逆戻りさせました。
  • 清国の介入と結末: 身の危険を感じた閔妃は清国に救援を要請。これを受けて清国軍が朝鮮半島へ軍事介入し、大院君を拉致して清へ連行しました。これにより大院君政権は倒れ、閔妃政権が復活することになりました。

ちなみに朝鮮語では、Imo Gunranと読みます。

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3. 済物浦条約(さいもっぽじょうやく / 1882年)

壬午軍乱の最中、日本公使館が襲撃されて日本人が殺傷された事件の事後処理として、1882年8月に日本と朝鮮の間で結ばれたのが済物浦条約です。

主な取り決めは以下の通りです:

  1. 賠償金の支払い: 朝鮮政府が日本に対して多額の賠償金を支払うこと。
  2. 日本公使館の警備: 漢城(現在のソウル)の日本公使館に、日本軍(兵士)の駐留を認めること。
  3. 謝罪の実行: 事件の責任を認め、朝鮮側が謝罪使を日本へ派遣すること。

この条約によって、朝鮮国内における日本の軍事的な足場(公使館の警備兵駐屯)が確保されることになりました。

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まとめ

1880年代の朝鮮半島は、「伝統を守り、清国に頼る守旧派(大院君)」と「近代化を目指し、日本などの力を借りようとする開化派・閔氏政権」の権力闘争の舞台でした。

壬午軍乱や済物浦条約は、そうした国内の矛盾や不満が爆発した結果であり、同時に清国と日本という外国勢力が朝鮮半島へ本格的に軍事介入・干渉を強める決定的な契機となった歴史的転換点でした。

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