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明治時代初期

日清の撤兵と事前通告の義務!天津条約の要点と1889年防穀令の歴史

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1. 漢城条約と天津条約(1885年)

1884年の甲申事変で日本公使館が焼き討ちされた事件の責任をめぐり、1885年1月に漢城条約が結ばれ、朝鮮側が日本に謝罪と賠償を行いました。

さらに同年4月には、日本の全権特使である伊藤博文と、清の北洋大臣である李鴻章が中国の天津で会談し、天津条約が締結されました。

  • 主な取り決め:
    • 日清両国の撤兵: 4ヶ月以内に、日清両軍ともに朝鮮半島から撤兵する。
    • 軍事教官の制限: 朝鮮軍の訓練のために、日清両国とも軍事教官を派遣してはならない(のちに両国の対立を抑えるための措置)。
    • 事前通告の義務: 今後、朝鮮に重大な事変が起きて出兵する場合には、互いに事前に通告し合う。

この条約により、一時的に日清間の緊張は和らいだものの、両国が互いに目を光らせる緊迫した均衡状態が続くことになりました。

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2. 1889年:大豆・米と防穀令のトラブル

1880年代後半になると、日本への大量の穀物(大豆や米など)の輸出によって、朝鮮国内で食糧不足や価格高騰が深刻化しました。

これに危機感を抱いた朝鮮政府は1889年、日本への穀物流出を食い止めるために防穀令(ぼうこくれい)を発令しました。しかし、事前の十分な通告がなかったことなどをめぐって日本側との間で激しい外交トラブルへと発展し、両国の新たな火種となっていきます。

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