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明治時代東京時代

蝦夷地から北海道へ|近代化の裏にあった「屯田兵」の国防と「アイヌ民族」の苦難の歴史

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1. 「蝦夷地」から「北海道」へ:開拓の始まり

幕末までの日本の地方行政区分は、古代から続く五畿七道東海道南海道西海道など)がベースになっていました。しかし、北方に位置する蝦夷地(えぞち)は、その枠組みの外にある異境とみなされていました。

この状況が大きく変わったのが1869年です。明治政府は蝦夷地を「北海道」と改称し、五畿七道にならって「八道」の体制へと組み込みました。同年、北海道の統治と開発を本格化させるために開拓使という特別官庁が設置されます。

当初、開拓使の行政の中心(出張所)は函館に置かれていましたが、ロシアに対する防衛や本格的な内陸開発を見据え、本府は広大な石狩平野の中央に位置する札幌へと移されていきました。これにより、政治や経済の機能が東京の直轄体制のもとで急速に整備されていくことになります。

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2. 屯田兵の配備と士族授産

明治維新後、政府は秩禄処分などによって特権を失った武士たちの救済(士族授産)という大きな課題を抱えていました。これを北海道の防衛・開拓と結びつけたのが、開拓次官(のちに長官)であった黒田清隆建議(意見書)です。

黒田は、ロシアの南下政策に対抗するためには北方の防備を固める必要があると主張し、1874年農兵制度を導入しました。これが、いわゆる屯田兵(とんでんへい)の始まりです。彼らは普段は農業に従事して土地を切り拓き、有事の際には兵士として戦う役割を担いました。失業した士族たちを北海道へ移住させることで、国内の不満分子を減らしつつ、一石二鳥で北の国境を守り固めたのです。

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3. 目まぐるしく変わる行政:三県時代から北海道庁へ

開拓使は10年間の計画で多額の国費を投じ、近代的な産業の育成に努めましたが、1882年に廃止されます。その後、北海道は札幌県根室県函館県の3つに分割されました。この時代を三県時代と呼びます。

しかし、広大で未開発の土地を3つの小さな県に分けてバラバラに統治するのは非効率でした。そこで政府はわずか4年後の1886年に3県を廃止し、これらを統一して一元的に管理する組織として北海道庁を設置しました。ここから、現在の「北海道」としての強固な行政基盤が確立していくことになります。

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4. アイヌ民族の受難と同化政策

明治政府による北海道の急速な開発(開拓)は、古くからこの土地で自然とともに生きてきたアイヌ民族の生活を根底から覆すものでした。

政府は北海道の土地を「領有者なき土地」として国有地に編入し、アイヌ民族が生きるための生業であった伝統的な狩猟やサケ漁を「密猟・密漁」として禁止しました。そして、代わりに農業を営むことを強制したのです。これは、アイヌ民族が培ってきた狩猟採集の独自の文化を破壊するものであり、日本人に染め上げる同化政策そのものでした。

1899年、政府は彼らの救済を表向きの理由として北海道旧土人保護法を制定します。しかし、この法律の本質はさらなる同化の推進であり、結果として激しい差別と強制を生み出し、アイヌ民族を貧困と社会的孤立に追い込むことになりました。

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5. 近年の動向:文化の復権へ

明治時代から始まった苦難の歴史は長く続きましたが、20世紀末にようやく大きな転換点を迎えます。

1997年、それまでアイヌ民族を縛り続けていた「北海道旧土人保護法」がようやく廃止され、新たにアイヌ文化振興法(アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律)が制定されました。これにより、かつて否定されたアイヌの民族としてのプライドや独自の文化を認め、それを保存・振興していくための新しい歩みがようやく始まったのです。

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