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太古時代

【古代中国・朝鮮半島史】公孫氏の自立と「帯方郡」の設置~東アジア情勢を動かした一大勢力~

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中国の後漢王朝が崩壊へと向かっていく紀元2世紀末から3世紀初頭、朝鮮半島北部から満州にかけての広大な地域で自立し、独自の勢力を築き上げたのが「公孫氏(こうそんし)」です。

彼らの動きは、後に邪馬台国の卑弥呼が使者を送ることになる「帯方郡」の成立に直結し、日本列島の古代史にも多大な影響を与えました。この記事では、公孫氏がいかにして自立し、どのように東アジアの外交拠点を築いたのかをわかりやすく解説します。

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公孫度の台頭と後漢の混乱

紀元172年、後漢帝国の玄菟(げんと)太守であった公孫琙(こうそんいく)は、優秀な少年を養子に迎えました。それが遼東郡出身の**公孫度(こうそんたく)**です。 玄菟郡の下級役人として働き始めた公孫度は、養父の支援もあって順調に出世を遂げ、紀元189年には後漢の皇帝から「遼東太守」に任命されます。

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「遼東侯」としての独立と勢力拡大

紀元180年代の中国大陸は、「黄巾の乱」や「五斗米道の乱」といった大規模な農民反乱により大混乱に陥っていました。 さらに紀元200年頃、都の洛陽が戦乱で炎上し、後漢王朝が事実上の無政府状態に陥ると、公孫度はこの機に乗じて動きます。

彼は遼東郡・玄菟郡・楽浪郡の三郡を手中に収め、後漢から完全に自立を果たしたのです。公孫度は自らを「遼東侯」「平州牧」と称し、襄平(現在の遼陽)を本拠地として一大勢力を築き上げました。当時の三郡の人口はおよそ40万人、約1万人の軍事力を有していたと推測されます。

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息子の公孫康による「帯方郡」の設置と馬韓討伐

紀元204年に公孫度が亡くなると、息子の**公孫康(こうそんこう)が跡を継ぎます翌年の紀元205年、公孫康は東アジアの歴史において非常に重要な決定を下します。楽浪郡の南部(屯有県以南)の荒れ地を分割し、新たに「帯方郡(たいほうぐん)」**を設置したのです。

当時、後漢の大混乱から逃れるため、多くの中国人が朝鮮半島南部の馬韓(ばかん)などに亡命していました。また、馬韓に存在する約50もの小国が力をつけ、公孫氏の領海を脅かすようになっていたため、公孫康は公孫模や張敞といった将軍を派遣します。 彼らは馬韓の北部を武力で制圧し、帯水(漢江・現在のソウル付近)を中心とする一帯に帯方郡を築きました。そして韓族や濊族(わいぞく)を討ち、馬韓に亡命していた中国人を多数取り戻すことに成功したのです。

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まとめ:東アジア外交の窓口となった帯方郡

公孫康によって設置された帯方郡は、その後約1世紀にわたって存続することになります。 そして、この帯方郡の成立は日本列島にも大きな影響を与えました。新たに設置された帯方郡は、韓族や**倭人(日本列島の人々)が中国の王朝へ朝貢・貿易を行う際の公式な窓口(外交拠点)**として機能するようになったのです。

後の時代、魏志倭人伝に登場する邪馬台国の卑弥呼が使者を送るのも、まさにこの「帯方郡」でした。公孫氏の自立と帯方郡の設置は、日本と中国大陸を結ぶ古代東アジアの国際関係ルートが整備された、歴史的な大事件だったのです。

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